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<<   作成日時 : 2009/07/30 17:48   >>

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 最近読んだ新書に、内藤正典(まさのり)著『イスラムの怒り』(集英社新書、09/05/20第1刷)がある。一読しての感想は、「知らなかったことが恥ずかしい」ということ。著者は、欧米的思考、或いはキリスト教的偏見とムスリムとの間の心理的な隔たりの大きさを憂慮している。また、「イスラム原理主義」とか「過激派テロ」とか言うレッテル貼りが、米国による一方主義的な「戦争行為」を正当化するために、安易に使用されていること、これに日本人が簡単に与してはならないこと、などに関して警鐘を鳴らしている。詳しくムスリム側の論理を本書によって提示されてみると、まさに目から鱗の事柄ばかりである。分かりやすい書籍なので、皆様にそのまま読んでいただきたいが、少しだけ概要を以下に紹介したい。

1.イスラム教は、「神への全面的預託」を前提にする
  キリスト教より約6--7百年遅れて成立した、一番新しい一神教であるイスラム教は、神への全面的預託=神への絶対服従を前提とするが、ある意味人間のストレスを一番解消してくれる、という優れた側面を有すると著者は言う。失敗も、成功も、ある意味神様の意志次第であるので、人間自身の努力不足とか、才能不足とか、そういう意味での悲観をしなくて良いから。
  コーランは、神の言葉(人間へのメッセージ)を預言者ムハンマドが直接聞いた言葉、すなわち神の言葉そのままを口承で伝授し、伝授された教友、弟子達がそのままを書き記し、その上これらの記述類を編纂して、弟子達の記述で矛盾する部分は時間をかけて排除して一種類にまとめられた。また、ムハンマドの生前の言動(スンナ)については、コーランに次ぐ宗教上の典拠として、ハディーズという書物にまとめられた。ハディーズに関しては、伝えた人によって、あることに関し若干異なる伝承もあるが、大きく矛盾するようなことはない(歴史の中で淘汰されたらしい)、という(p.200--201)。

  これに反して、イエス・キリストの言動などを弟子達が書き留めた福音書が主体となる新約聖書は、異本の類が存在するほか、多くの教会が公式に認めているマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4名の福音書の間にも、矛盾がそのまま残されているという。
  要するに、コーランは、神の言葉そのものなので、ムスリム達はこれらの言葉に絶対的に服従するし、コーランそのものが汚されたり、破られたりすれば、激怒する、という。(また、神の言葉そのものなので、西欧で起きたような宗教改革とか、啓蒙主義による宗教権威への挑戦と科学的思考への重点の移動、などはムスリム社会ではあり得ないと、以前mugiさんが教えてくれた。)

2.べからず3箇条
 著者は、ムスリムの間から、怒りで暴走し、テロを引き起こす過激派を減らすには、何が必要か、ごく簡単にまとめれば次の通りだという(p.180):
(1)弱い者いじめ(特に女性、子供、高齢者の殺害)をしない。
(2)聖典コーラン、預言者ムハンマド、神を侮辱、嘲弄、揶揄したり、不適切な形で使用しない。
(3)イスラムに由来する価値観や生活習慣を「遅れている」と侮辱しない。

 上記を強調しつつ、著者は、パレスチナ問題について、自然災害でもなく、戦争行為に基づく攻撃で、地域の住民らが余りにもひどい目に遭わされてきたのに、宗教色の無いPLOは半世紀にわたり問題を解決できなかったので、レバノンのヒズブッラーとか、ガザのハマスが台頭したのだという。弱者保護の立役者として、イスラムの宗教に期待する気持ちが強くなったのだ。

3.強者と弱者への対応・行動理論
  この著書で一番小生が驚いた説明は、イスラム教における強者と弱者への対応に関する箇所(p.174--176)。
 カッパドキアに、著者と引率された日本人学生達が旅行したとき、現地の女性らが土産物を売りつけようとわらわらと現れて道をふさぎ、著者はそのしつこさに辟易するのだが、一人の女子学生が貧血で倒れたときから、事態が一変したという。地元女性らは、直ちに女学生の救助に走り寄り、懸命に介抱したという。彼女が意識を回復した後も、女性らは謝礼の受け取りを一切拒否した上、土産物を売りつけることももはやしなかったという。
 著者の解説によると、「観光客は、いわば金持ちの強者であるが、その人が倒れたことから突如弱者となり、その瞬間、ムスリムとしては、見返りを一切求めない弱者救済へと行動様式を一変させた」という。
 辛い思いをしている人は、イスラム教では弱者であり、弱者を助けることは、ムスリムの義務、神の定めた義務なのだ、という。周囲の人々は、弱者を救済するという善行を積まなければならない義務があるのだ。経済的に困窮する人々を助けることも、「人間の善意」などではなく、神の定めた「絶対的な命令」の一つであり、だからイスラム社会では、物乞いに金を渡しても、彼らは「ありがとう」とは言わない、金を持っている人間に善行を積ませてやっているのだから、感謝の必要はない、という。

 なぜ小生がこの箇所に特に感銘したかというと、ブルガリア、或いはバルカン半島が専門の小生にぴんと来るところがあるからだ。
 昔(1969年頃)小生が、ソフィア市からギリシャ国境に向け、ブル人友人を小生の車に乗せて、走っていたとき、小生の車を追い越したり、或いはわざと道ばたで停車して待ちかまえてはもう一度追い越したり、と危険走行を繰り返すバカな青年がいた。しかも、Volvoだったかの外車であり、明らかに共産党幹部の子弟しか、そんな高級車には乗れないのだから、小生もかなり立腹していた。しかるに、数回も、危険速度での追い越しをした後、小生が道ばたをふと見ると、例の外車が、数m下の畑の中に落ちて(恐らく、速度の出し過ぎで、自ら畑の中に突っ込んだらしい)いるのだ。小生は、ひしゃげた車の中で、明らかに負傷し、呻いている運転手(バカ青年)の姿も見え、「血を怖がる日本人」として、また、バカ青年の競争心を図らずも煽った自分(日本車という珍しい車に乗っていた)への若干の引け目もあり、とても救助に向かう勇気はなく、路上から単に傍観していた。
 ところが、その事故に気付いた同乗のブル人友人と、少し経ってから集まってきた他の車のブル人達は、皆が直ちに畑の中に駆け寄り、服が汚れることなど少しも気にもせずに、血まみれの被害者(運転者)を車から引き出すと共に、座席に余裕のある車に乗せて、直ちに救急病院へと運んでいったのである。
 この後、同乗のブル人友人からは、「おまえは血が怖いのか?なぜ自分と共にすぐに救助に向かわないのだ?」とバカにされてしまって、「しかし、危険な速度で反対車線を使ってまで追い越したり、バカな行為をしたのはあいつではないか」と反論したのだが、友人は、そういう小生を不思議な目で見ていた。
 この時の違和感を、この著者の視点=強者が弱者に一変したとたんに、行動基準が一変するムスリム社会、という視点から見てみると、なるほどとも思える。すなわち、500年弱もオスマン帝国という、ムスリムが社会の支配階層だったバルカン半島では、独立し、キリスト教(オーソドックス教会)中心の社会となり、或いは無神論の社会主義時代となっていても、根本的な社会の倫理観、行動基準*は、ムスリム的な慣習が、未だに生きていた(或いは、生きている)と考えれば分かりやすい。(*注:小生は、当時「バルカンメンタリティー」という言葉を頻繁に使っていた。メンタリティーとは、思考回路、思考様式、考え方、視点、心理状態、などとも言い換えうるが、要するに日本人としての自分との違いを感じる場合のことだった。)

 ブルガリア人の行動様式は、小生が読んだ『私もトルコで考えた』という、ある漫画家の著書で紹介されているトルコ人の行動様式・メンタリティーと、ほとんど大部分、極めて正確に一致しているのだ!! 子供に対する、超あまーい対応ぶり(猫かわいがりする、躾けをしない)とか、上記のような事故とか、非常時における「計算抜きの対人救助精神」などだ。他にも、小生がバルカン・メンタリティーとして少し違和感を抱いていたことの中にも、ムスリム社会の特徴として理解できることがあるのかも知れない。

4.イスラエル、米国の過ち
  著者が何度も指摘するように、ムスリムの立場からは当然な「弱者への配慮、救助精神」が欠けているのが、イスラエルと米国だ。武装した軍隊が、なぜ弱者である一般住民、特に子供、女性、老人にまで武器を使用するのか?そのような、ムスリムの視点からは、絶対してはならないことをしておいて、一部の過激派テロ団(彼らも確かにムスリムだが)による攻撃への報復として、正当化しようとしても、絶対に理解して貰えない、と著者は言う。なるほど、そういう細かい視点、宗教的善悪感情に関する理解が欠けていて、大国の論理、強者の論理に依存して、相手を力で服従させようとしたり、強制しようとするところが間違っているのだ!

  ちなみに、著者によると、イスラム教の神は、人間の欠点・欲望への「寛容性」もあり、その教えに関しても、何時も絶対に守れと強制したりはしないらしい(後で気分がよいときに善行をして、弁済できるという)。ましてや、他の宗教からの改宗なども、絶対に強制してはならないことらしい。これに反して、キリスト教側は、仏教、ヒンズー教の世界では、ある程度布教に成功するのに、一番隣人であるムスリム達が、ほぼ絶対に棄教とか、改宗とかに応じないことを嫌悪しており、益々対イスラム教悪感情を募らせ、反イスラム宣伝までするようになっているとして、西欧・米国キリスト教徒らの傲慢さに警告を発している。(注:そもそも一神教同士の間では、改宗は少ないだろうし、棄教・改宗を「死に値する罪悪」と教義にあるイスラム教からの改宗は、ほぼあり得ないはずだ。その点を考えれば、教義上も多神教の仏教とかヒンズー教に比べ、イスラム教からの改宗が困難なことは、初めから分かっていて良さそうなものだ。)



イスラムの怒り (集英社新書 493A)
集英社
内藤 正典

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内 容 ニックネーム/日時
 シャリーアとひと口に言っても宗派により微妙に異なりますから、裁判沙汰になるとそれぞれの宗派の裁判所で行っていたとか。日本ではまず考えられないことです。
 記事にあるカッパドキアや貴方のブルでの体験はとても面白いお話です。同民族間なら相互扶助精神があるのは不思議ありませんが、異教徒の弱者にまで及ぶのは驚きました。本当に我国の文化人は欧米偏重気味、その受け売りでイスラムを見る。

 先日、キリスト教べったりのブロガーからコメントがありましたが、何と「相互理解」について主張していました。「相互理解のはじめは、お互いの考え方の違いを、お互いに認め合うことからはじまります。そのために議論しているのです」と言いながら、一方的主張ばかり述べる独善性。本当にクリスチャンとマルキストは言うことが似ています。
mugi
2009/08/05 22:05
※訂正

正:ハディース
誤:シャリーア
mugi
2009/08/05 23:08
 実のところ、弱者に対しては態度が一変して無償の救助精神が発揮されることに関しては、元来がムスリム道徳で、東方正教会系の現代バルカン半島にも継承されていることなのか、或いは、東方正教会系のキリスト教にはそういう教えがあるのかも?という後者の可能性も、あり得るような気もします。ともかく、異民族が多いバルカン半島では、逆に言えば、異民族だから「救助精神が異なる」ということは、少し考えにくいです。
 例えば、黒海沿岸でしつこく物乞いするジプシー達(かれらは、夏のシーズン、観光客の多いブルガリアの黒海沿岸のリゾート地に、押しかける傾向があった)に大して、ドイツ人観光客が一番冷淡で「働かないから貧しいのだ」と、相手にしない。他方で、金満のロシア人観光客が一番寛大で、ジプシー達に、時には驚くほどの多額の金銭を与える、と04年当時のブル紙に記事が出たことがある。金持ちは、貧乏人に喜捨をするというムスリム的姿勢が、東方正教系のロシア人にもあるようで、これもオスマン帝国系列だったクリミア半島、コーカサスなどのムスリム社会との長年の対立、抗争を経験したロシア人達が、いつの間にかムスリム的な道徳、倫理を受け容れた、と考えると面白いのです。そもそも、キリスト教にも元来は、弱者に対する「愛」という教えはあるはずで、それがプロテスタントなどになると、自助努力を強調しすぎてそういう精神が弱まっている、という風にも想像できる。とはいえ、バルカン半島、ロシアなどの「救助精神」が隣人であるムスリムの高潔な無償の救助精神に影響を受けて、キリスト教の「弱者への愛」精神が固まった、とも考えられる。
 
室長
2009/08/06 06:52

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