OSの入れ替え?

 今回は、自分で考えずに、新聞の意見に頼ってこれに同調すると言う、日本人の安易な生き方を再度糾弾すると共に、国家統治の根本システムを変える(橋下徹知事によれば、OSの入れ替え)など、国策を再構築して、日本の生き残りを図るべきこと、これには安易な道州制導入論は排除すべきこと、などを論じてみる。

1.お題目平和主義 
  前回の記事でも小生は、朝日、毎日両新聞という左派系新聞が、戦後の日本人の思考力を後退させたこと:ともかく終戦直後の一億総懺悔主義を国民に植え付け、あるいは日本の軍国主義が過ちだったのだから、「二度と戦争はしません」と叫ばせて、日本さえ戦争を棄てれば、全ての国際紛争は他人事となり、自国は平和そのもので、戦争に巻き込まれることは決してない、というような幻想を植え付けたこと、を間接的に糾弾したつもりだ。 もちろん、両新聞だけが悪いと言うより、戦後の左翼系思想蔓延現象全体にも責任があるし、それらを率先して布教した一部の左翼系学者、評論家、作家(松本清張など)などの責任でもあると思うが、他方で、一番多くの責任は、そういう風潮に自分は乗らないが、長いものに巻かれろ式に、沈黙していた多くの国民にも責任がありそうな気がする。ともかく、戦後の日本で一番いけなかったことは、戦時中と同じように、異論、独自見解、自分で思考する、というような、インテリとしては当然の行動様式が廃れたことにあるように思う。両新聞だけでなく、日経、読売、東京なども含めて、ほぼ大部分の新聞が、同じような記事、主張を書いたり、掲載したりしてきたと言う風に感じるからだ(詳しく検証してはいないので、単なる印象論だが)。
 現実論として考えてみると、「二度と戦争はしません」と何度叫ぼうと、或いは「戦争はダメ、平和を守ろう」*といくら日本人が一方的に決意を繰り返して、「お題目平和主義」的に、日夜鉦や太鼓をたたいて観念平和主義のお題目・お経・信念を唱えようと、国際関係というものは、相手のあることであり、何ら自国の国防がより完璧に、或いは安全になることはあり得ない。やはり周辺国とか、国際環境とかを、広い戦略的観点から検証しつつ、自国の国防力充実に努めて、有事に備える以外に、安全保障を確保する手段はあり得ないのだ。
  (*注:これまで小生が何度も指摘してきたように、左翼の「戦争はダメ」議論は、主語抜きが多いが、実はほぼ常に彼らがわざと省く主語は「日本、または自衛隊」なのだ。日本、或いは自民党政権が「憲法違反して整備した自衛隊」こそは、平和への脅威だというのだ。敵国の軍隊は何の危険性もない友人扱いして、自国の軍隊は危険だという、とんでもない思考方式なのだ!冷戦時に、ソ連、或いは中国になら、占領されても、むしろ幸せ、と左翼の連中は考えたのだ。そのあまりにひどい自虐主義に国民が呆れて支持率が低迷し、社会党は社民党に名称変更を強いられたのだが、土井党首が引退しても、未だに彼らの思考方式、言っていることは何ら変わっていない!!不思議なことに、日本共産党だけは、昔党員に聞いたところでは、国防論を本当は持っていて、共産党政権が成立したら、自衛隊は一度解散するが、直ちに自前の国防軍を編成し、また米軍を追い出して現状以上に強力な国防軍を作るという話しだった。ある程度は現実主義なのだ。尤も、共産主義国家になったら、日本の資本主義も崩壊するのだから、日本国は大貧乏国になって「強力な国防軍」などあり得ないと小生は思うのだが。)

2.国防費用はけちろう
 ただし、国防力というのは、使わないことが一番だし、従って国防費というのは、なるべく最小限の費用で、有効な武器、兵器システムを備蓄して有事に備えるべきなのだ。その意味で、兵器マニアのように、高価な兵器をどしどしと採用することは、現在の日本国家が(地方政府を含めて)GDPの200%という、世界的にも稀なほど異常な累積債務を抱えていることも勘案すれば、無謀としか言いようがないのだ。その意味で小生は、以前から、MD(ミサイル防衛)システムとか、F22などの高価な武器体系の採用には反対なのである。
 MDは、専守防衛の憲法に鑑みて、先制攻撃できないのだから絶対必要などという、法律論ばかりが先行するのが日本国の政府内部の議論の現状らしいが、そういう馬鹿げた法律論は、この不況の世の中に大出費を続ける言い訳にされては困る。北朝鮮のミサイル基地などは、危険な兆候が出れば、さっさと攻撃ミサイルとか巡航ミサイルでたたけるように、先制攻撃用の武器(MDなどに比べれば10分の一、20分の一の安価な武器体系だ)を備蓄しておけばよいのだ。有事には、法律論はもはや無意味なのだから、持てる武器を全て駆使して自国を守る、と宣言すればすむことだ。(注:とはいえ現実には、最近どなたかが、国際紛争シミュレーションを有識者達(大部分日本人)で行ってみたら、米国、中国などの政府中枢では、迅速に利害を計算の上合理的な判断が出来るのに、日本の場合は、軍事力を行使するという場合に、集団防衛になるとか、極東地域ではないとか、こういう場合に自衛隊は出動できないだとか、結局法律面での制約ばかりで、そういう法的制約をどういう風に克服するかの議論にばかり時間を取られて、素早い対応が出来ず、国際紛争、有事における日本の貢献は、極めて難しく、国際社会における日本のプレゼンスがどうしても希薄になってしまう、或いは時間的に最後に出動するという結果となる、ということに気付いて、皆が呆然としたという。要するに、橋下徹知事が最近のテレビ朝日(お昼の番組)で言っていたように、日本国は、そのOS(コンピュータ用語で、基幹システム)を早く全面交換して、正しい統治システムとし、危機に対応できるような骨太の新国策を定めないと、自滅の危機にあるのだ。)
 また、狭い国土で戦車戦を戦えるような、人家がない広大な土地などどこにもない日本国に、戦車などを整備する必要性などどこにもない。大部分の日本の国道のアスファルトは、戦車が通過するには舗装の厚みが足らない、と聞いたこともある。陸上での戦闘=本土決戦などは、海自、空自の戦力が崩壊しての最後の戦いだが、そのとき今のように「反戦教育」ばかりを受けてきた国民が、それでも戦おうと言うだろうか?陸自は、南西諸島とか、朝鮮半島に近い島々とか、北海道とかの国境近く(辺境部)に駐屯して、ゲリラ的な占領、小兵力による上陸作戦に備える方が、より現実的なような気がする。最近のどこかの報道では、都市部でのゲリラ戦とか、大都市での内乱鎮圧、という方向での部隊編成というドクトリンで陸自は再編成しつつあるようだが、いくら中国系、或いは朝鮮系の在住者が増えていると言っても、彼らは日本国における商売に関心のある人々が多く、自国政府の指令に基づいて本気で日本国を転覆するために活動するのだろうか?
 まあ、軍事、国防に関しては、素人の小生が余り細かいことに口出ししても馬脚を現しそうだけど、他方国防は「税金の使い道」としての大口だから、皆が自分の意見を言うべきだと思う。小生は、基本的には、国際関係に危機意識を持って、自衛措置を十分講じるべきだと思うが、他方で、軍備に大金を割くことはせず、海に囲まれて攻めにくい国家という地理的利点を生かして、最小の軍事費で、最大の効率を、と願っている。

3.白村江の失敗:国策の基本、外交戦略のなさが国家存亡の危機を招く 
  本日(8月1日)付けの産経新聞「土曜日に書く」欄で、渡部裕明(ひろあき)論説副委員長が、なかなか良い記事を書いている。
 要点としては、「白村江の戦い=敗戦」(663年)以来日本では、鎌倉時代の「蒙古来襲=元寇」(1274年、1281年)、幕末から太平洋戦争(1850年~1945年)と、約600年ごとに3回国家存亡の危機を迎えたが、これらの契機は何れも国際情勢だった。先の戦争後日本は米国に学び、進んだ技術や文化を吸収することで復興を果たしたが、またそれは基本的には間違っていなかったが、外交という点では米国に過度に依存して、独立した国家として当然成すべきことを放棄してしまった。特に多面的で戦略的な思考を欠く、という悪しき日本の特質は(白村江の戦いの時と同様に)今も続いている」ということ。
 外交だけではない、国防すら米国にほぼ全てお任せで、自らの努力を怠っているのだから、何れ自滅してもおかしくはないほど、危うい。特に国民が、外交は外務省がするもの、などと考えていることもおかしい。外交は外務省の役人とか、外務大臣とかだけがやるものではない。首相自身の方針、政府全体としての国策・戦略があっての外交である。その基本、根本が曖昧で、いい加減だから困るのだ。

4.地方分権:道州制はダメ
  橋下徹知事が、地方分権を主張するのは、中央官僚達は、国家として生き残るため、或いは成功していくための戦略を練り、日々対外面での競争、外交などに専念すべきなのに、それをなおざりにして、むしろ各地方(特に市町村レベル)で、最も何が必要で何が必要でないかを知っている当事者(すなわち市町村当局)を虐めてやる気をなくさせるような、財源の配分を独占するやり方をしていることが馬鹿げている。地方に財源を割り当てて、自由な裁量に任せるべきなのに、そうしないから税金の無駄遣いとなる、ということらしい。要するに、人材、官僚の人数とか、配分も、地方と中央できちんと再整理し直すなど、全面的な統治システムの再構築が必要だ、ということだ。これは正しい議論である。
 他方で、自民党の公約によると、今後5--6年で道州制を導入するとあるらしい。これは馬鹿げている。小生は絶対反対だ。ただでさえ面積の広い北海道とかでは、かなり前から独立論などもある。日本国を7つとかの道州制にしたら、九州独立論とか、関東独立論とか、下らない地域主義が生まれるだけだ。(注:地域主義の弊害は、隣国韓国における古代の3国時代(百済、高句麗、新羅)にまでさかのぼる地域主義の、根強い対立からも明らかだ。それに、県庁不要論となって、県庁も廃止されれば、県庁所在都市の人口が激減するなどの虞が強く、結局は県庁の廃止は地元から受け容れられないだろう。すなわち、道州制議論は、中央官庁の役人の受け皿を作るだけ、もう一度無駄な道州という中間官僚機構を作り出すだけという懸念が大きい。事実、現在の道州制議論の多くは、県の上に道州を作る議論。)

 地方分権論は、地方への財源移転を強調する議論なのだから、なるべく下の単位=市町村中心に移転すればよいのだろうか?橋下徹知事は、そういう意見のようだが、小生は、ある程度は県にも財源を握らせるべきと思う。
 まず小生は、上記の地域主義排除のために、県単位を残すべきと思う。47という多数の県単位では、独立論とか、地域主義の弊害もしれているからだ。

 そして全ての財源を市町村に下ろすことに反対するわけは、小生がある知人から聞いた話:「市町村には民主主義があり得ない」ということを憂慮するからだ。同人によると、市町村レベルでは、皆がお互いに知人だから、市長、町長の悪口は言えないし、会合などでも誰か有力者が、自分の利害に立って強く主張すれば、それに反対することは、村八分の虞もあって言えるものではない、という。公共工事なども、市町村レベルで多くが発注されるとなると、地元の建設企業が大部分受注するなど、むしろ今より談合とか、汚職とかが増えるという。そういう意味で、現地の必要性とかをよく認識できるが、他方過度の談合体質を排除できる単位として、県単位は適しているのかもしれない。それに、市町村レベルよりは、県単位の方が、技官などの専門職も置くことが出来、それなりに有効な官僚組織の単位では無かろうか。

 ちなみにブルガリアの例では、社会主義時代、社会主義体制の欠点故に、徐々に何事も上手くいかなくなった頃、独裁者は、よく「改革、改革」と先に主張して、官僚組織の再編(省庁の合併、分離)とか、機構改革などを頻発し、また28県の地方政府体制を、州というより大きな単位に再編したりしたが、自由化後はすぐに元通り28県体制となっている。日本において何の伝統にも立脚しない道州制という、巨大官僚組織をこれから産み出す必要性は何もないし、欠点の方が多いだろう。小生は47県(一道、一都、二府、43県)という、既に長きにわたって確立された地方単位を統合する必要性を何ら感じない。

 江戸時代は約300の藩が存在して、自治が上手くいっていたという議論もあるが、交通の発達した現在、県を再び300という明治初期の頃の数(藩の数)までに増やす必要性もない。他方、市町村統合を更に推進して、市町村の数をかつての藩の数=約300にまで減らすという議論があり、これならば、それで上手くいきそうなら、どうぞといいたい。
 要するに小生案は、地方への財源分配は、現在の地方交付税分を全部初めから県、及び市町村に50:50くらいの比率で分配する。農水省、経産省、国土交通省などの中央官庁の地方局などは全廃するし、これら省庁から地方への補助金なども、全部無くして、財源を地方側に移転する、など。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック