「日本国の成立は7世紀」(続編)

日本国の成立は7世紀」について
岡田英弘氏の『倭国の時代』(ちくま文庫)を読了したので、少し感想文を書く。
  先に紹介した池橋氏の「稲作渡来民」=江南地方からの越人移民の到来に関する歴史推理とともに、従来我々が日本史として理解してきた流れとは全く異なる新歴史観が姿を現したと言える。岡田史観では、古代(古墳時代)の華僑社会形成こそが、日本国(及び韓半島の統一新羅国)建国の基盤だった、という極めて説得力に富んだご意見である。
  実は小生は個人的には、脱亜論の方が好きで、近代以降のナショナリズム勃興後の現代日本国家が、今更「アジア共同体」などという「入亜論」を展開する民主党の外交政策には、大反対だし、現代中国は同じくナショナリズム+中華思想を展開しているので、益々反対ではあるが、他方で、歴史に関する史観という意味では、華僑建国説という岡田理論に説得力ありと感じる。ちなみに、岡田氏は、入亜論者ではない。また、「華僑」とは言ってもそれは文化的な意味であり、人種的には、韓半島と古代日本の現地系の血筋がより濃厚であることに留意する必要もある。
  それに、7世紀における韓半島、日本における「建国・独立」の動きは、当時の強大国中国=唐に対抗しての、軍事的自立宣言(侵略には断固抵抗するとの宣言)であって、世界史的に見ても、民族主義的な独立国家形成の動き、民族国家形成が、欧米諸国においても19世紀以降である場合が多いのだから、韓国、日本の7世紀における自立、新民族国家の形成という事例は、「極めて歴史の古い」部類として、「大いに誇りうる」ものである。

1.池橋説
 さて、最近池橋宏氏の『稲作渡来民』説により、紀元前800年頃中国江南地方に発した「越--タイ系民族」(水田稲作技術を発見、完成させた人々)が、ゴンドラ型の丸木船に櫂という原始的な外洋渡航技術で、山東半島→遼東半島→朝鮮半島西岸を南下→半島南西部から海岸沿いに東へ→釜山辺りから南下→対馬→壱岐→北九州という海路を辿って、一種のボートピープルとして日本に到達し、縄文時代に人口が少なかった北九州の沿岸河口部に入植して水田農耕を開始したらしいことを紹介した。
 このシナリオでは、当初は、十数名など、少数の男性のみが、ボートに乗って散発的に、何次にも分かれて日本まで到達し、北九州の河口部湿地帯に、彼らが得意とする水田を造成し、稲作を開始し(当初の食糧としては、同じく彼らの得意技の漁労に頼った可能性)、現地の縄文人女性らと結婚して(この越人と縄文人の混血が弥生人)、収穫量が豊富な米と言う水性穀物、及び豊富な魚介類という安定した食糧のおかげで、縄文人に比べて圧倒的に大きい人口増加率(年率2%)を記録して、徐々に日本列島各地の同じような河川河口部へと次々に植民地を拡大して、海岸沿いに稲作弥生人として人口を増大させていったらしい。また、池橋説では、少数の越人移民は男子のみであったことからも、中国語を残せず、倭語の海に同化したという。
 池橋説は、主として近年の発掘調査などの、考古学的成果・科学的手法に依存している。

 また、岡田説では、華商=中国系商人の到来時期を紀元前3世紀以降としているので、本格的な華僑の到来以前の、弥生時代中に、既に中国江南地方の住民(越人)が、日本列島での最初の中国系移民として、弥生時代の人口爆発を引き起こしていた、という学説は、岡田理論の紀元前後における新たな中国系混血達の大量来訪、植民という事件があっても、さほど相互に矛盾する部分はない。

2.岡田英弘説
 他方、岡田説は、考古学的手法に疑問を呈して、確実な文字資料である中国の公式の歴史書という史料、「広開土王碑」碑文、7世紀頃に関しては信用できる『日本書紀』などを東洋史家として、また中国学学者としての長年の研究成果をもとに推論する形で、全くこれまでの日本史専門学者らが気付かなかった視点から、日本国誕生、建国の経緯を明らかにしたもの。小生が従来から尊敬してきた井沢元彦同様に、日本史の従来の専門家・大家らの視点をほぼ全て覆すような、斬新な新説を提示するもので、頁をめくる毎に驚嘆させられる、すばらしい推理が続く。
 岡田英弘氏の著書として小生が集めたのは、文庫、新書ばかりだが、次の通り:
  『中国文明の歴史』=講談社現代新書(07年5月第6冊)、
  『倭国:東アジア世界の中で』=中公新書(07年3月34版)、
  『日本史の誕生』=ちくま文庫(08年6月第1刷)、
  『倭国の時代』=ちくま文庫(09年2月第1刷)。
  ちなみに、小生が岡田氏を知ることとなったのは、岡田氏の妻である宮脇淳子氏の著書である『世界史の中の満洲帝国』=PHP新書(07年4月第1版第4冊)を読んで感動したせいで、その夫君という岡田氏に興味を抱いて、同氏の著書を本屋の文庫本、新書本の棚で探し始めたからだ。(注:宮脇淳子著書に関しては、このブログの08年3月13日付の記事を参照していただきたい。)

 さて、上記の通り、昨年4月に読んだ『中国文明の歴史』以来、岡田氏の著書を少しずつ読んできたわけだが、あいにく一度に上記の4冊を見付けたわけでもなく、他の本も読むなど、一気に読まなかったので、記憶が曖昧で、纏まった形で血肉とならなかったのが残念だ。しかし、小生の感じでは、読者の皆様に一番お勧めなのは、ちくま文庫の2冊と『中国文明の歴史』である。

 岡田氏の画期的な新説とは、東アジア史全体(特に18世紀、19世紀における東南アジアの発展史)に関する同氏の鋭い観察眼から、東アジアにおける文明化のプロセス、すなわち、華商の来航→華僑居留地の形成→大食漢の華僑に食糧を供給するため周辺地域の農業生産力が増加→人口増→都市の形成→経済発展→人口増大→建国という化学変化をもたらす触媒・契機が明らかにされたこと。
 岡田説によると、東アジアでは、華商が船で未開地に到来して、地元酋長らを手なずけつつ、根気よく商品を現地人行商を通じて売る努力を重ねる過程で、徐々に現地側の農業生産力(自給自足の範囲・量を超える食糧生産)、特産品生産力(中国製品との物々交換のための商品生産)が増大し、華商がやがて店舗を構えた港湾地域において、徐々に市場が出来、華商達を庇護する現地酋長達の政治力も軍事力も高まって、やがて国家が建国されるという、アジアにおける国家形成の触媒=華商との理論が提示される。

 そして、肝心の日本国形成の契機も、紀元前3世紀に、北京地区に出現した燕国が、まず東方に進出して遼東郡を置き、朝鮮半島、日本への進出を開始し、次いで前漢が紀元前108年、朝鮮北部に楽浪郡、南部に真番郡を設置して、対日貿易ルートを開設したことにあるという。既に朝鮮半島よりも人口の多かった日本市場が、華商達にとっては魅力だったらしい。
 真番郡経由で、倭国北九州との貿易を開始し、更には瀬戸内海にも華商達が到来して、あちこちの港に華商が根拠地を置き、現地妻を娶って混血の華僑を産ませた。港に面する華僑居留地では、現地酋長が華商・華僑の商売を保護し、取引税を取ったほか、楽浪郡当局からの勧奨に基づき、漢、魏、東晋、宋などに倭国の現地酋長代表が、朝貢使節を派遣した由。

 倭国における華商達を通ずる貿易における利益と秩序を守るため、対日貿易を取り仕切る楽浪郡などの中国側役所が、本国における政権の箔付け、皇帝の権威を中国臣民に誇示するために、倭の使節の朝貢などという儀式・行事を、中国側の都合で、何度もアレンジし、これらが史書に記録として残ったが、名目上「親魏倭王」に任命された卑弥呼も、華商達を庇護する現地の名誉総領事のようなもので、倭国全体を統括するような軍事力もなく、統一国家も未だ無い段階だったという。

 対日貿易の利益を目指して、そのルート上にある朝鮮半島においても、北部中国地方から進出した華商達が、遼東郡→楽浪郡の平壌へ、更に平壌から水路沿いに南下して、対日貿易ルート沿いに都市が発達した。これら韓半島の都市部には、華商=中国人と現地人との混血で、中国語を話す民=華僑が発生、居住して、彼ら華僑の人口が増えていった。

 また、対日貿易も、これら韓半島の新羅、加羅地方の華僑がまず担当して、北九州から瀬戸内海地方にかけて来航し、これら各地に華僑系の市場、都市(ただし、中国、韓半島における市場・都市は、城壁で囲った本来の中国式の都市=県城であったが、日本では市場、集落はあっても城壁は必要なかったようで、発達しなかった)が形成され、市場を庇護する現地酋長=倭人の酋長の軍事力も増大していった。
 結局、瀬戸内海地域の経済力(首として農業=米と、華僑が種を持ち込んだ各種野菜の生産力、或いは対中輸出商品の生産力)が増大し、瀬戸内海最深部の河内に最初の本格的な倭の政権が出現した(河内王朝)。

3.池橋説と岡田説の接合は?
 さて、本当は、両説の間には、めぼしい接点もないし、全く相反する理論体系に基づく日本国誕生仮説のようにも思えるのだが、小生としても悪のりして、両説の結合、接合を図ってみたくなった。所詮は、理論的に何ら関係のない両説の結合など無意味で、バカげているのだが、少しだけなら、余り害は無かろう、知的お遊びだ!!

(1)国内華僑人口の増大、唐の軍事的脅威が国家建設の原動力:岡田説
  7世紀における韓半島と日本におけるほぼ同時期の、本格的な中央政権による統一・独立国家建設(韓半島には統一新羅、日本列島には日本国)の間接的な背景は、すでに両国とも華僑人口の増大で、文明化、都市化が進展して、中国語を読み書きできる「官僚層」も出現していたこと。また、新羅、倭の両国に、中国の政権から独立した、独立国家の形成を促した直接的な要因として、岡田氏は強大な唐軍の軍事的脅威を挙げている。

(2)華商到来は、既に弥生系人口の爆発があり、市場があったから:池橋説
 他方、華商到来そのものが、現地人人口が既に相対的に多数で、市場があると見込まれたからであり、そのような弥生系人口の増大(弥生時代に日本列島の人口は総数60万人に達したらしい。)をもたらしたのは、池橋説にあるように、水稲耕作農業技術が、越人ボートピープルらによって、早くからもたらされたからだ、といえるのであろう。

(3)唐によるアジア諸国への圧力増大、軍事的脅威が現地側の独立、自衛を決意させた→東アジア情勢全体の動きの中で、7世紀、同時期に朝鮮と日本における「独立国の建国」が成された:岡田説
  要するに、貿易など経済権益の増大のみで満足していた華商中心の東方進出から、軍事力で韓半島のみならず、倭国さえも侵略し、直接支配しそうな危険な政権が、中国本土に出現したことが、白村江の戦いで完敗した斉明女帝の倭国には脅威となり、668年天智天皇が即位すると同時に、国号を倭から日本へ、王号をオオキミ(大王)から天皇へと変更し、唐の制度を真似した官制、戸籍制度などを導入し、国家の「近代化」を図ったのである。
  しかし、国家建設においては、何らかの形での文書作成能力がなければ、あり得ないことだった。アジアでは、文書作成に関し、本来は発音も、文法も異なる異言語同士でも相互理解可能な漢文という文書形式が存在したので、国語・国字が無い状態でも、とりあえずは、漢文を採用することで、官僚組織の形成が可能であった。また、漢文を読み書きできる読書人が生存できるだけの、農業生産力の余力がなければ、やはり国家形成はあり得ない。

(4)日本との交易のため、韓半島も開発され、加羅の鉄塊が貨幣の役割:岡田説
  なお、岡田氏は、紀元前も、紀元後も、ほぼ常に韓半島の人口は、日本の人口の1/4~1/3程度と少なかったので、華商達は人口の多い日本との貿易を重視して、まずは韓半島における華商のための安全な内水航路利用ルート(半島北部では大同江、礼成江、南部では漢江、洛東江を輸送に活用する、水運ルート)上に、城壁で囲った居留地=県城をいくつも作り、華商と現地人との混血人口が増えて、対日貿易拠点として新羅、加羅地方における小国が発達した。特に加羅地方は製鉄業が盛んで、この鉄塊は当時の貿易において、貨幣・決済手段としての役割を果たした、という。

  なぜ日本の方が、人口が多いかというと、韓半島では山地部が多く、また北部は気候が寒冷で、結局米作に不向きで畑作・牧畜に依存する面が大きいかららしい。日本の場合、韓半島に比べれば、広大な平野があり、気候も温暖で、水田米作に向いていたので、池橋説のごとく弥生人人口が増大し、中国人が交易相手を探して到来した頃(紀元前3世紀以降)には、既に人口が多かったと言うことであろう。
  (注:岡田説で中国人とは、今日の漢族というような人種、民族的な意味合いを持たない、文化的概念。都市に戸籍を持ち、漢文の読み書きを出来れば、中国人である。華商と朝鮮半島現地人の混血=華僑とか、韓半島現地混血で漢字の読み書き可能な華僑系の2世、3世、或いは倭人と華僑の混血、なども中国人となれる。人種的に夷狄出身でも、読み書きできる学力があり、都市住民として戸籍を許されるなら、中国人である。)

4.日本国建国に貢献した秦人、漢人
  新羅、加羅地方の中国系混血=新羅人、加羅人が、早い時期に倭国に到来して秦人(はたひと)と呼ばれた。これに比し、より遅れて倭国に到来した百済人には、元来楽浪郡、帯方郡に居住していたが、高句麗の勢力拡大から逃れて、南方の百済地方に避難してきた中国人・中国系混血が多く、漢人(あやひと)と呼ばれる。秦人・新羅人は前漢の標準語であった陝西方言系(河北・山東方言系)の中国語、漢人・百済人は後漢・魏・晋時代の標準語だった河南方言系の中国語を話したという。
  畿内の河内、大和地方では、新しく百済の滅亡などで大挙到来した漢人・百済人の言語(河南語)が主流で、それより奥地の山城、近江では、漢人より先に到来して平野部の開拓農民化していた秦人の陝西語が話されていたらしい。

  現地人系の倭語は、畿内では平野部に多く入植してきた帰化人系の言語の影響で、語彙も文法も、相当変化してしまったが、生き残っていたという。
  ともかく、河内王朝、その他の倭国の政府機関の確立は、漢人、或いは秦人らの文書能力無しには、成立し得なかったし、韓半島、中国との間の交易も、コミュニケーションも、これら華僑達の漢文能力無しには、継続できなかったであろう。

  しかし、岡田氏によると、中国から独立して、対中鎖国的に日本国家を建国した以上、中国語とは異なる自国語が必要であるから、漢人・百済人達の河南語系の話し言葉を中心に、倭語の単語・語彙を取り入れたりしつつ、新たに人口的に創り出していったのが、万葉集の日本語であるという。要するに、日常語としては漢語を使用していた華僑社会が建国時の豪族、官僚達であるから、徐々に現地人の倭語を学習していたとは言っても、書き言葉の表記方法も、文法も、全てが手探りであったらしい。万葉集にも、日本語表記用として漢字の使用方法が未だ確定しておらず、訓で(すなわち表意文字として)、または音で(表音文字として)、或いは音・訓混合で、というように、書き方が各種混ざっているほか、結局純粋な漢詞のままという例すらあるという。

  ともかく、正式文書は漢文という伝統は、なかなか崩れなかったものの、日本では万葉仮名(漢字を一音のみの表音文字として使用)→漢字の部首を使用して「カナ」を、あるいは草書体から「かな」を、それぞれ工夫・創出する形で、表音文字・和式アルファベットを発明したし、仮名を用いた「国文」文学も早くから発達した。独自の国字と国語での詩文、文学が、対中独立後、早期に完成したこと、また地理的に海中に孤立して、陸続きではなかったことも幸いして、韓国に比べると、日本国の対中自立の完成、発展は早くて、既に9世紀頃には独自文化の確立傾向が見られた、と豪語しても良いのではないか、と小生は思う。

5.中国大陸からの血液、言語的影響の巨大さ
  そうは言っても、せっかく多くの日本人は、これまで、縄文時代、弥生時代と原日本人のみの時代が長く続き、ようやく飛鳥時代頃に朝鮮半島との交流が強くなり、百済滅亡後辺りに、かなり多数の百済系移民の波が日本に来訪したとはいえ、基本的に縄文時代以来日本においては「異国系の血液」は、さほど流入せず、原日本人の血液が保たれてきたし、日本語も、縄文語→弥生語→奈良時代の古代日本語と、外的な影響はほぼゼロで、自立的に発展してきたように思いこんでいたのが、移民・血統という面でも、或いは言語的影響という面でも、シナと韓半島の双方から、圧倒的と言えるほどの影響を、紀元前から7世紀にいたるまで受けていたことを確認することは、何か無念な心境と言えなくもない。とはいえ、韓国人、中国人の中に、余りにも我々日本人とそっくりすぎる顔貌が多いと、以前から思っていたことも確かであり、結局、1300年前まで、とはいえ、多くの血液と、言語要素が、日本の中に導入されたことを、我々としても理解すればよいのであろう。

6.朝貢=臣従ではない、友好国程度の意味
  他方で、いくら海を隔てているとはいえ、国境線もはっきりしておらず、日本国家も明白には建国されていなかったような7世紀までの歴史段階で、中国本土---韓半島---日本列島に連なる民間人(華僑)による貿易経路が活発に機能していたらしいこと、これら交易も、中国側では、楽浪郡などの出先官庁(軍司令部)の有力な税収源として存在し、維持されていたことなど、岡田氏の指摘により啓蒙されることは数多い。

  また、朝貢貿易という解釈は全くの誤解であり、中央の皇帝陛下に、楽浪郡その他の辺境地域軍司令官が、自らの傘下にある現地人酋長を招いて、種々お膳立てした上で朝貢させるという行為で、中央政府に「ごますり得点を挙げる」と言うシステムだったことも、これまでの歴史書で読んだことが無く、岡田氏のおかげで初めて知る、目から鱗のすばらしい解説だ。貿易は貿易で、朝貢使節ではなく、華商達によって行われるのだ。中国における「外交」の意味は、今日でも、現政権の権威付けのために外国使節らが、いかに現政権(現皇帝)に敬意を払い、朝貢してくるかを誇示すること、すなわち対国内宣伝が主目的(例えば台湾でも、未だにそうだという)と説明されると、よく分かる。別段、朝貢=臣従ではなく、単に皇帝陛下の「高徳を慕って、遠方より来たり」(という建前を中国側の所管官庁がお膳立てする)て、挨拶するだけなのだ。邪馬台国の卑弥呼の場合も、本当の意味で臣従したわけでもなく、「親魏倭王」の金印も、「在日名誉総領事」程度の肩書きに過ぎないらしい。

  あの広大な天安門広場、右広場に面したやたらに広大なホールの中で行われる中国首脳と外国首脳の会談風景も、主として写真とかTVカメラに映像を撮影して、国内宣伝用に配信することが目的の、そういう道具立てだと分かれば、あの空々しく見える雰囲気も、なんとなく理解が可能という気がしてくる!!

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