ブルガリア史の偉人100選:ボリス3世王

  23番目の偉人は、第1次大戦後に即位し、第二次大戦中に、ヒトラーとの会談後の心労を元に死亡したと言われるボリス3世王です。1918年に即位したが、第1次大戦で経済的に疲弊し、領土的な夢も壊滅したブル国内では、農民党的共和主義、ファシスト系右翼による共和主義などの王権軽視、極端な政治思潮がはびこり、ボリスが親政を実現できたのは、ようやく1935年(41歳)のことでした。要するに、17年間は、ただただ「政治的忍耐を重ね、戦略的待機を重ね」、国王としての統治の知恵を磨く修業を重ねたという感じです。
  この政治的体験に鍛えられて、ボリスの国王としての資質としては、「①分析的な知恵、②重要な決定を後回しにして、政治の世界の危険な水面下の岩塊を迂回するという、策略的な才能」が指摘されています。
  残念なことに、結局は第二次大戦における同盟国の選択でも、ドイツが勝利すると予測したために、ブル国をまたもや破滅に導いてしまいました。

  とはいえ、第二次大戦中にモスクワに在勤した我が国の外交官らの思い出としては、共産主義国家のモスクワでは物資欠乏で何もモノが無かったが、「出張でソフィアに行くと、衣料品、靴、食料品など何でも手に入り、戦時としての物資欠乏は何ら感ぜられず、豊かな国であった」という。第二次大戦後イスタンブールに亡命した、ブル語をしゃべれるある家族(恐らく、ブル語をしゃべるムスリムであるPomak系の商人)も、小生に対し、「戦時中でもボリス王のおかげで、ブル国はほぼ何ら大した戦争はしておらず、ソフィア市は物資も豊富で、繁栄していた。ところが、共産主義体制になって、60年代末、ソフィア市のツム百貨店というところに行ってみたが、何も買いたいような商品は無かった。共産主義はひどい政権だ!」と言っていた。・・・要するに、短期的視点から見れば、ボリスはブル国に平和を確保し、実質的には「中立」を確保して、国民の民生は豊かに保たれていた、良い君主だった、ということなのです。

  もっとも、戦後の現実が、赤軍による占領、ソ連圏への編入、ソ連への絶対従属ですから、やはり、初めから英米連合国側について、しっかりドイツとも戦っておれば、戦後には、ギリシャと共に自由圏に残れる可能性があったのかもしれません。とはいえ、それも単なる仮定の話です。連合国側に国王が付いたはずのユーゴでも、チトーによる共産党革命が起きて、「共産圏入り」したのですから。

23.ボリス3世=忍耐と待機の名人(1894--1943年、統治期間:1918--43年)
  ボリス3世王の言葉:「自分はガラス張りの商店で、中に象が連れ込まれた状態の店のオーナーだ。止めどなく半端者たちを粛清して、敗北させねばならない」。
   (小生注:せっかくブル王国の王座に就いたとはいえ、「自分の周囲にいるのは、暴れ象を宮殿にまで引っ張ってきて、自分を脅すような、野蛮で、信用ならない乱暴者ばかりだ。休みなく、こういうガラクタを追放し続けないと、自分の玉座も危ういのだ」、という意味らしい。独裁者として、一人で政権を担わねばならないが、「周囲には頼れる人材は払底していて、誰もいない」、と言う嘆きのように見える。)

  さて、ボリス王(3世)の個人像とか、業績の程度、に関しては、未だに冷静な歴史的評価を待っている、と思える。この百選の中で、これほど上位にこの人物を持ってきたことには、多くの人々が反発することであろう。しかし、この新ブルガリアのもっとも困難な歴史の中で、国家元首としてボリスが行った行為は、運命的な結末を招いたのだし、その意味で、ボリス王をこの順位で扱っておくだけの存在感はある、と言うべきだ。

(1)Ferdinand Iの長男として誕生
  Borisは、Knyaz Tqrnovski(Tqrnovo王子)として、1894年1月30日に生まれた。Ferdinand I(Ferdinand I of Bulgaria)王とMariya -Luiza(Princess Marie Louise of Bourbon-Parma)王妃の間に生まれた長男で、王太子だ(ボリスの下には、Kiril王子、Evdokiya王女、Nadezhda王女の3名の弟妹が生まれた)。生誕時には、101発の祝砲で祝われた。そしてその生誕は、ブル第3次王国の極めて重大時でもあった。

  すなわち、ブル王朝の基礎が固まり、同時にブル露関係が「融和的」となった。ボリスと言うクリスチャン名は、もちろんブル第1次王朝時のキリスト教改宗王ボリス1世との継続性を意味するし、Tqrnovo王子というタイトルも、第2次王朝時の首都名(Tqrnovo) を戴いており、これも王朝の連続性を思わせるように工夫されている(注:ドイツから輸入された王族という、外来性を弱める工夫だ。ちなみに、母親は、イタリア王の王女だ。)。もっとも、この時国民は将来への期待で沸き立った*が、実際には、厳しい宿命を背負った生涯だった。

   (*注:ブル国の土地に生まれた、生まれながらの「ブル人」としての、将来の国王として、国民は歓迎した。また、ボリスは、2歳の時、下記の事情でオーソドックス信徒として洗礼を受けたので、このことも国民がボリスを愛する要因となった。
  1896.02.03王太子が、02.14にオーソドックスの洗礼を受ける旨発表された。2月14日、露皇帝Nicholas IIが、名付け親となり(出席はしない)、ソフィア市のSv.Kral寺院(現在のSv.Nedelya教会)で、ekzarh Yosif I(総主教代理ヨーシフ1世=ブル教会の最高位聖職者)により洗礼式典が挙行された。
  フェルディナント王とその妻は双方ともカトリック家系であり子息の改宗には気が進まなかったのだが、露とブルの関係改善、和解を演出することは、フェの王権の列強・国際社会からの承認を確保してこの王権を確立するために、かつ、ボリスの将来の地位をも安泰とするためにも、必要な措置であった。つまり、改宗はこの対露関係改善のための、やむを得ない妥協策だった。とはいえ、国民は将来の国王がブル正教徒となることを大歓迎した
。)

(2)学歴は無くとも知性派で博学
  ボリスは、たった5歳の時に母親を失い、その後はフェルディナント王と言う、冷酷な人格の影で成長するしかなかったので、暗い性格となった。辛抱強く、神経質で(もしかしたら、幼児の教導役となった女流詩人Mara Belchevaの影響か?)、更に、生まれつき謙虚で、遠慮がちなことが、この将来の国王の性格だった。フェ王の少し不可思議な教育方針で、ボリスは、著名な西欧の大学に留学することもなく、この故に公式の教育機関への在学歴もないままに育った(高校教師が家庭教師となって高校レベルまで教育したほか、幼児から仏、独、伊、英語を習得した)。とはいえ、ボリス嫌いの人々と言えども、ボリスの細やかな感情、生まれながらの知性、及び博学については異論がありえない。上記の品格の上に、ボリスは更に、疑いもなく優れた政治的嗅覚、君主的な感受性なども保有しており、欧州政界の間でも、疑問の余地なき権威を備えることとなった。

  王制シンパの間では、ボリスは「国民」王の模範(国民に親近感を与える)、としての人気を博した。他方で、ボリス嫌いの間では、油断ならない不思議な人物で、常に自らの身辺にLyubomir Lulchevのような占い師をはべらせ、多くの死刑判決に署名し、更には、ブル国家を新たな破滅の道に導いた人物なのだ。歴史の真実は、どうやら、上記のような、全く相矛盾するけれど、実は相互補完的な二つの層のほぼ中間点に見出すべきなのかもしれない。

(3)1918年、24歳のとき、敗戦国の国王として即位(以降25年間統治した)
  ボリスが王位に就いた時(1918年10月3日)、同人はまだ24歳の若さだった。その時、まさに、王制は危機に直面していた。2度のバルカン戦争と1度の世界大戦への参戦で、経済は見るも無残に崩壊し、国家の理想としていた領土拡大の夢は壊滅した。これが、自ら廃位宣言してブル国から去って行った父親フェ王が、子息に残していった遺産だった。

  統治の初めから、新王は、諸政治勢力の前で、王制の維持を擁護していくしかなかった。まさにこのように、王位の権威が最低に落ちていた時期に王位に就任したが故に、ボリスにとって「王制」とは、政府に対する関係、或は政党に対する関係では、「政治的忍耐と戦略的待機」の模範と言うべきものとなった。ボリスの統治は、先鋭化した政治的、社会的紛争の環境の中にあった。戦後の共産党革命頻発による動揺とか、世界恐慌など・・・。

  嵐のような25年間、ボリスはこの国を統治した。その間にブル国では、2回のクーデターが起き、1度の蜂起が準備され・・・・更には、1925年4月16日に、Sv.Nedelya教会で実行された政治テロ事件*は、他にもいくつもあった政治テロの頂点だった。              
    (*注:このテロ事件は、共産党がボリス王、主要閣僚、国会議員たちが集まる教会行事を狙って実行した爆弾テロ。ボリスは、到着が予定の時間より遅れたので無事だったが、一部の議員、軍人たちは犠牲となった。死者150名という大惨事だった。http://79909040.at.webry.info/201101/article_11.htmlを参照。)

(4)政界へは裏からこっそり操作
  国家指導者としての基本方針としては、ボリスは自らの父親とはほぼ逆の立場を採った:フェルディナントにとって、ブルガリアはあくまで自らのアイデンティティーと同一ではなかったが、ボリスの場合は、ブルの国益とともに、ブル社会の中に深く自らが根ざしていた。もちろん、自らの王朝を防御するという論理(至上命題)があるので、ボリスは常に用心深く、忍耐強く行動したほか、父親がより直接的に政治に干渉したのに比べれば、何時も裏からこっそりと誘導する政治手法を採った。

  ボリスは、その統治開始当初から、単なる表看板とされる脅威の淵に立たされていた。この故に、ボリスとしては、間断なく、自らの個人、政治家としての生存確保のためにも、闘争を続ける必要があった。この理由から、当初ボリスは軍部に支援を要請することが多かったが、他方で、軍部は1918年以降、政界への干渉を頻繁に行っており(これはフェ王時代にはあり得なかったことだ)、「諸刃の剣」であった。また、第1次大戦後に、安定した議会伝統が存在しなかったこと、政治文化が低かったことが、ブルの公的社会に不健全な影を落としていた。

  バルカン戦争と、第1次大戦の双方に敗北したという国家の悲劇と、国内政治が強制的措置により支配されたことが、1920年代*と1930年代**に、国家の前途への自虐感、悲観的視野を生んでいた。
    (注:*(1)1920--23年はBZNS(農民党)政権による「共和制」的試みがなされた。この期間、ボリスは生き残るためには、「君臨するも、統治せず」を実践するしかなかった。また、1923年6月9日の「軍事同盟」(不満士官ら)と「国民合意」(農民党以外の政治家が結集)によるクーデター後は、Aleksandqr Tsankovを首相に任命する勅令に署名せざるを得なかった。署名しなければ、王位維持が難しかっただろう。その後、1925年には上記の共産党によるテロ事件があった。
 
  **(2)1934年5月19日に、Zveno派士官らによる軍部クーデターがあり、またもや自らの意に沿わない命令(Kimon Georgievが首相に任命された)に署名させられた。下記(5)も参照。いずれにせよ、ボリス王は、右翼系士官らの暴力的政権奪取に際しても、「忍耐と戦略的待機」という賢明な知恵を発揮して、反撃の機会を待った。)

  とはいえ、ボリスの国王としての個性を、当時のブルの国内政治世界における暴力主義性と同一視することは、公正な評価ではない。しばしば、ボリスの行動は、実は両大戦間の時期における不健全なブル国内の動向に対する、適切な対応であったのだ。

(5)1934年の国軍クーデター後、徐々に権威主義的体制の中心として機能
  1934年5月19日の国軍によるクーデター(19日派という右派系士官たちが実行)以降の複雑な政情の中で、ボリス王は混乱から脱出する方策として、権威主義的な政権を樹立することに出口を見出した。1930年代半ば、ボリス自身が国力を結集するための中心勢力となることが自然だった。混乱を排除し、政治的・イデオロギー的体制を整備して、自らが権威主義的な国家体制を構築する*、そういう道筋を国王自身が描くこととなった。一部の研究者が述べるがごとく、30年代末には、ボリスと言う個人の周囲に、いつの間にか次のような一種の神話が生まれていった:「王制こそは一番重要な国民的資産だ、ブル人たちがアイデンティティーを感じるための一番重要な要素だ、そして、ブル人の歴史的な継承の柱なのだ!」。
  (*注:ボリスの親政(1935.01--43.08年=8年間)については、http://79909040.at.webry.info/201101/article_12.htmlを参照。)

(6)賢明な外交政策で、隣国の支配下に置かれたブル系人を支援
  今日に至っても、ボリスの外交、或は功績に関し評価は定まっていない。そもそも第1次大戦敗戦国として課された、厳しいヌイイ講和条約による規制では、国軍の規模は33000名の定員を超えることは許されなかったし、周囲は、敵意を持ち、懐疑心に固まった隣国に囲まれていたし、列強の間にも、ブルを強力に庇護してくれる国は存在しなかった。こういう厳しい条件の中で、ボリスは外交を推進せねばならなかったのだ。そして、そういう環境の中ボリスが採用した、「平和主義的修正主義」と呼ばれる基本外交方針は、知恵に基づいた、成果を挙げうる、有益な外交方針として、ボリスの疑問の余地なき功績として認められるものだ。

  ボリスはまた、「最小限の外交的課題」と称する路線を採用して、国際連盟が与えた「少数民族の権利」と言う概念を宣伝し、かつ、守護しようとしたことで、ブル外交に目覚ましい成果をもたらした。この外交によって、マケドニア(ユーゴ王国内、及びギリシャ北部)、エーゲ海沿岸のトラキア地方(ギリシャ東北部)、ドブルジャ(ルーマニアがブルから盗んだ南ドブルジャ)に在住する少数ながら同化政策に抵抗していたブル人エスニック集団を支援したのだ。

(7)巧みな外交力を発揮して、1940年秋に、南ドブルジャをルーマニアから奪還した
  ボリス王の姿は、隣国諸国が略取したブル国家の領土につき、その問題を指摘し、ブルとしての立場を擁護しようとするとき、最も輝いて見えた。結局、ボリス王が推進した枢軸側諸国への接近策は、第2次大戦時、及びその終結後におけるブル国家の運命に対し、巨大な意味を持った。第2次大戦前夜におけるボリスの外交に関しては、今研究者たちが手にすることのできる資料では不十分で、完全な評価を成しえない。

  とはいえ、ボリスが1940年秋に実現した「南ドブルジャ領土の返還」(注:ルーマニアが、ソ連、ドイツからの圧力の下、南ドブルジャ領をブルに返還するという条約が「平和裏に」実現された。 http://79909040.at.webry.info/201101/article_12.htmlを参照。)こそは、疑いの余地なく、ボリスの外交の功績と言える。

(8)対独軍事対決は、決して許さなかった
  ボリス3世が、ドイツに対する軍事作戦を決して許さなかったことを忘れるべきではない・・・これはブル国民の間に大きな犠牲を強いたことであろう。ボリス自身は次のように表現した:「黒パンの方がましだ、黒いスカーフよりは」。
   (注:多くの国民に犠牲を強いて、婦人たちの多くが夫を失い黒いスカーフを付けることになるよりは、黒パンで我慢した方がましだ、という意味らしい。ブルでは、ロシア、ドイツと異なり、ライ麦系の黒パンは,あまり好まれない。
   なお、ボリス王は、国民の親露感情ゆえに、ソ連に対する参戦も決して考えなかったし、これに関してはヒトラーも要求しなかった
。)

(9)ついに、独側に立っての参戦しか選択肢が無くなった
  客観的な公正さで判断すれば、ボリスにとっては1941年3月期になると、もはやほかの選択肢は無かった:「もしヒトラーが、ドイツ軍を使って明白に自分を脅迫するとすれば、スターリンならば、わがブル国民を使って圧力をかけてくるであろう」(注:ドイツは完全な外国だが、露帝国を引き継ぐソ連のスターリンの場合は、ブル人の間の親露感情を操作して、国王に圧力をかけるくらいは朝飯前で、ソ連の方がドイツよりも国王にとっては与しがたい相手だということ)。

  対ギリシャ作戦で苦境に陥ったムッソリーニを支援するため、ヒトラーはブル国土を蹂躙してでも、ギリシャに馳せ参じる決意だった:ブルの態度が、融和的だろうが、独軍に敵として対峙しようが、それに関わらず、だ。

(10)独軍が負けたら、東欧はソ連赤軍に占領されることを予見していた
  1941年1月7日、ボリス王と相談した後首相のBogdan Filovは次のように結論した:「英国の勝利などは、どうしても期待できない。何故ならば、独軍の力が崩壊したら、我々の諸国は直ちにボリシェヴィッキになってしまうからだ」。(注:たとえ独軍が崩壊しても、そののちに起きることは、英米軍の到着ではなく、それより先にソ連軍が到来して、東欧、バルカン諸国は共産圏入りを強いられるだろう、という、その後の結末をきちんと予測していた言葉だと言えよう。)

(11)とうとうボリス王は、3国同盟側に与することを決意した
  結局ブルは、3国同盟側に与(くみ)することを決めたが、この方針を決断したのはボリス王だった(日本軍の真珠湾攻撃成功を知ったのち、1941年12月12日、ブル国会が対米、英宣戦布告に踏み切った)。

  そしてこの決断こそが、第2次大戦後のブルの運命を大きく狂わせる元となった。1944年9月9日の共産党革命以前、ブルは第2次大戦の各方面での戦線には、一切参加していない。唯一(ドイツとの交渉で)確保した権利とは、マケドニア地方と、エーゲ海沿岸のトラキア地方の両地域を軍事占領する権利だ。この時一時的占領だったが、獲得した領土は、1万4168平方キロ*に達した。このため当時ボリス王は、「統一した国王」と呼ばれたほど。結局第1次大戦時同様に、この時の占領も、永続性を保つことはできなかった。
   (*注:またもやブル学者の数字音痴ぶりで、間違った数字だ。現在のマケドニア共和国の国土面積だけでも2万5300平方キロ強ある。エーゲ海沿岸のトラキア地方がこの半分としても、合計で4万平方キロ程度は占領したはずだ。他に、ヒトラーの命令で、ボリスは北セルビアのモラヴァ渓谷地方の警備、ベオグラード--サロニカ間鉄道警備、サロニカ市警備、など徐々に警備地域拡大を強要されている。これらの土地では、占領行政まではしなかったにせよ、かなりの兵力配備が義務付けられたようだ。)

(12)象徴的に対独抵抗するという選択肢は、ありえたのか?
  ブル国家の国益の視点から見て、当時も別の選択肢がありえた。象徴的な程度にナチスに対する抵抗の戦火を交え、その後銃を置いて従属するという(デンマークのように)。こうすれば、軍事的崩壊も免れ、第2次大戦後は戦勝国の一つに列することも可能だった。要するに、この運命的な選択を採用したことには、どちらの側の勝利をボリスが信じていたかにかかっていた。その意味で、結局は1940年代初頭における選択において、まさにドイツを採ったという選択の責任は、完全にボリス王にある、と言うべきだ。

(13)ナチス・ドイツとの同盟関係も、気が進まない衛星国としての付き合い方だったが、連合国側からは、完全に敵国として扱われ、大戦末期には、空襲にも晒された
  ドイツに対する態度として、国王は一番困難な役割を引き受けた・・・気が進まない衛星国という。1915年にフェルディナント王が遠い未来の展開を見据える視点を欠いていたように、当時の軍事紛争の最終結末を予想しえなかったブルガリアは、一番暗い未来を背負っていたナチス・ドイツと同盟してしまった。この間違った選択をしたボリス王と王の下で行政していた政府は、「象徴的な程度の」戦争を、大西洋同盟の民主諸国家に対して仕掛けただけだが、結果としては、相対的には戦争に不参加で、平和を貪っていたソフィア市住民に対する連合軍の空爆を受けた。

(14)ブル国内のユダヤ系市民は、国会議員、市民、正教会の反対を踏まえて、ボリスも決断して、ナチスの要求を蹴り、北方絶滅収容所への送還を拒否した
  国内の弾圧には、ユダヤ人達も晒された。とはいえ、ブル国民だったユダヤ人達の救済において、ボリス王もその役割を果たしたのだが。
  国王が最上部から承認を与え、かつ、国王自身が干渉しなかったならば、この歴史的にも画期的な「ユダヤ人救済」事例*は、成功しえなかったはずだ。現在の視点から見ても、これはボリス王の歴史的な功績であり、国王の倫理的な配当を現在のブル人も享受していると言える。
  (*注:第二次大戦中のブルのユダヤ政策、本件ブル国内在住のユダヤ人の北方の絶滅収容所への移送停止、というボリスの英断に関しては、http://79909040.at.webry.info/201101/article_14.htmlを参照。)

(15)1943年8月、49歳で急死
  ボリス王は、1943年8月28日に急死した(まだ49歳の若さで。ヒトラーとの最後の会談から2週間後のことだった)。そして、枢軸国側の敗退が続き、先行きが絶望的な中に国民を置き去りにする結果となった。国王の死亡には、幾つものミステリーが取り巻いており、当時の新聞発表:「卒中」は、当時も、現在も、多くの人々は正しい理由と受け止めていない。一つの陰謀論は、ヒトラーが激怒して毒殺を命じたという説、もう一つは、逆に連合国、特に英国が、ボリス死亡に責任があるとの説、もある。ともかく、広く信じられている意見は、もし万一ボリスが生きていたら、最後までボリスがこの国を面倒見て、何とか国家としての出口を見出したはずだという。ともかく、ボリスの後を引き継いだ政治家たちが無しえなかったことを、ボリスなら何とか成し遂げたのではないか?という意見だ。

(16)ボリスの決断が異なったものだったら、ブルは共産化されずに済んだのだろうか?
  また、1941年に国王が別の選択をしておれば、ブルの歴史は異なる道筋を歩んだのであろうか?この質問に対する答えは、難しい。
  ルーマニアの国王Karol IIは、三国同盟への参加を拒否したが、結果として廃位を強いられた。ユーゴ国王Petqr IIは、英国との同盟者として、ナチス・ドイツとの同盟を拒んだ。にもかかわらず両名ともに、玉座を追われたうえ、その国家は、戦後共産圏の域内に入った、その理由は、両国が「ソ連の勢力圏に区分けされた」からだ。
   (注:ヤルタ会談は、1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談。チャーチルとスターリンの両名が、勝手に東欧、バルカン半島の地図上に、それぞれの影響圏につき線引きしたといわれる。米国のローズベルトは、特にコメントしなかったらしい。)

  恐らくは、その後の推移は、ボリス王の決断いかんを問わず、ブルに依存しない諸要素の結果、結局は同じだったかもしれない。それならば、なぜボリスを我々著者2名は、Georgi Dimitrov、Aleksandqr Stamboliyskiといった同時代の英雄たちの上に置くのか?その理由は次の3つだ:
①多くのことがあったが、それでもボリス王は、王冠を受領した時よりも、ブル国をより大きいものとした(注:南ドブルジャ領を回復した)。
②必ずしも成功しなかったとはいえ、ボリスは、純粋にブルの国益に沿って行動しようとした。他方で、Dimitrovは晩年において、ソ連のエージェントに成り果てていたし、Stamboliyskiの場合は、自分の才能を十分発揮しえないうちに、クーデターで潰された。
③また、DimitrovとStamboliyskiの影響力は時間的に短期間のみだった。なぜなら、彼らの政党さえもが、後には彼らの理想から遠ざかり、これらを拒否したのだ。これに比し、ボリス王という「国民の王」の記憶は現在に至るも継続しており、この故に、ブル人の間に王制への親愛の情を残している。その結果、第2次大戦中に幼い国王として存在した後、自由化後のブルに戻ったSimeon Sakskoburggotski*が、01年の総選挙で勝利し、今(この本は、03年出版)ブル国の首相となっているのだ。

   (*小生注:シメオン元国王は、01--05年の4年間首相として在位し、自由化後のブル国に一定の安定期をもたらしたものの、実態としては、一部のyupi(若く、大都会に住み、高収入の職業を持ち、知識が高い人々のこと。英語のyoung、urban、professional、intelligentの単語の頭文字からyupi=英語発音はヤッピー、ブル語発音でユーピーと呼ばれた。)閣僚たちの「清新なイメージ」に立脚しつつも、結局は彼らユーピーたちの背後にマフィア(オリガーキー)的な勢力が存在することがスキャンダルで暴露された。更には、国王自身が、戦前・戦中の「王室府」(日本の宮内庁のような官庁)として所有していた宮殿、山荘などの不動産資産を、自分の首相在任時に、かなり違法な手段さえ弄して「自分の個人資産として、返還させる」ことに成功した、という、利己的動機の存在すらもブル語新聞に暴露された。

  この結果、シメオンが結成したNDSV(エンデセヴェ、Natsionalno dvizhenie za Simeon vtori=「シメオン2世国民運動」の意味)と言う政党は、04年頃には、国民の人気があっという間に消え失せ、その次の社会党中心の政権(05--09年)には何とか与党3党の一角に残ったが、09年の総選挙ではNDSV党は1議席も取れず、国会内からは消えうせた。要するに、ブル国民の「王制への親近感」などは、たいした根拠がなかったという結論だ、と言える。

  とはいえ、ボリス王自体に関しては、未だに色々な意見があり、一定の支持者も存在する模様だ。特にこの本が書かれた03年頃は、以前の共産党時代への嫌悪感から、一定のボリス王人気が復活、存在した。この本で一人に割かれるページ数は、普通は3--4頁だが、このボリスについては5頁が費やされていて、そのことでも、現代史に占めるボリス王の大きさが分る
。)

(17)家族
  Borisは、伊王Victor Emanuel IIIの娘Giovanna of Italyと1930年に結婚し、二人の間には、1933年にMariya Luiza(Marie Louise)王女、1937年には王太子Simeon IIが生まれた。
  シメオン2世王は、第2次大戦後共産党政権が実施した1946年9月8日の「王制廃止国民投票」の結果、亡命を余儀なくされ、最後はスペインに定住していたが、共産党政権崩壊後の自由化を受け、帰国して総選挙で勝利し首相になったのは、上記の通り。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック