偉人百選:ゲオルギ・ベンコフスキ(その一)

  40番目の偉人は、この百選の中では異例な非インテリで、小アジア半島を放浪したような、どうやら放蕩癖もある、お調子者の革命家であるGeorgi Benkovskiだ。日本で言えば、戦前の大陸浪人のような人物と言えば分り易いかも。
  とはいえ、こういう世俗の中で人生経験を積んだ人物は、この百選に出てくる他のインテリで、学者、新聞記者、文人、政治家などを兼務したような人間とは違い、大衆を扇動し、反乱軍を編成し、トルコのバシボズク(非正規軍)のような荒くれ連中との実戦を指揮するには、よほど腹も座り、弁舌も爽やかであるし、英雄的な活躍をする、とも言える。そもそも、Stara Zagora蜂起などでも、結局は普通のブル人、大衆、村民は一切決起に参加していない。インテリの頭でっかちの、亡命革命家らが、一部の村のインテリ層と密談して、大衆はついてくると信じて蜂起するのだが、村人たちが賛同して蜂起にあとから駆け付け、参加したことなど一度もないのだ。

  ところが、GBが担当した第4革命区(Plovdiv地方)のみは様子が違う。GBが、大衆の言葉で、非インテリの心理を突く演説をし、いかにトルコ人支配を排除することでより良い暮らしが実現するか、と訴えることで、この蜂起には、各村で本当に、普通の村人が参加したらしいのだ。
  広い範囲の反乱部隊(cheti)を機動的に、神出鬼没に支援するために、騎馬部隊を作った、と言うのも実戦的で、独創的な発想だ。第4革命区の司令官の補佐役に過ぎないはずが、組織作り、武器調達、地元民の徴募・動員など、あらゆる実務活動で能力を発揮したので、結局は自分が総司令官になってしまう、というのも、面白い現象だ。

  もっとも、GBの英雄的な人物像には、Zahariy Stoyanovが造形、脚色した「アイドル」としての役割部分が、隠されているのかもしれない。とはいえ、ZSは、下手に美化する手法はとっておらず、「半文盲で、乞食のような境遇から革命家となった」と言うことをむしろ強調していて、「生きた人間」として描く手法を採ってはいる。

  今回も結局長文となったので、2回に分けます。まず、その一です。

40.ゲオルギ・ベンコフスキ=四月蜂起の実戦部隊長(1841/44—76年)
   Ivan Vazovの言葉:「歴史の中では、このような事例は稀だ・・・これほど自信に満ちて、まるで狂気に近いと言えるほど。ブルの民族的精神は、これほどの高さに到達したことはこれまでなかったし、他の機会にこれほどの高みへと到達するとも思えない」。

  本名Gavril Gruev Hlqtev――別名Georgi Benkovskiは、この百選の中で相対的には高い順序に位置付けられている。その理由は、同人が組織した四月蜂起(1876年4--5月)第4革命区での偉業に対する尊敬の念、及び、この革命区でのトルコ軍鎮圧の悲劇性に関し、またブル民族解放運動の大義に対し、世界での反響が大きかったからだ。

  GBに対しては、時期尚早な、そして十分考え抜かれていなかった準備状況に関し、批判があろう。しかし、同人の果たした役割、その行為の影響範囲の大きさについては、異論の余地がない。この結果、GBは、他の欧州諸国における民族解放運動で著名なBem、Gyorgey、Petyofi*らに比肩する人物と言えるのだ。何しろ同人の場合は、ブル人一般の計算高さが見られず、理想と衝動の力が優先するからだ。だから同人の英雄的な衝動、意識的に受け入れたリスク、自己犠牲に対する意志、などをきちんと評価してやるべきだ・・・このような勇気は、我が国の歴史でそれほど多くはないのだから。
   (*原注:①Yozef Bem(1795--1850):ポーランドの英雄で、1830--31年における対ロシア蜂起の指導者の一人、②Artur Gyorgey(1818--1916):ハンガリー革命軍の総司令官。1849年8月に降伏、③Shador Petyofi(Petrovich)(1823--1849):ハンガリーの詩人兼民族革命家、1848年のハンガリー革命の指導者の一人。)

(1)GBの伝記資料は少ない
  GBは不幸にも、あるいはむしろ幸運にもと言うべきか?・・・四月蜂起の活動家の中では、公式に伝えられている、詳細な、装飾化された、或は架空的な伝記すらまともにない、と言う稀な人物なのだ。GBに関する唯一の伝記作家はZahariy Stoyanov(20番目の偉人)であり、しかもZSこそがGBの一番近しい協力者であった。その故に、GBの人物像は、極めて理解しやすいし、世俗的なのだ。

(2)出生、職歴
  Gavril Hlqtevは、Koprivshtitsa町(ソフィア県東部)生まれで、正確な生年月日は不明だ。父親の死後、同人は学校から離れ、徒弟奉公したが、その後は更に小アジア地方にまで行った。
  ZSの著書『ブル蜂起の記録』によれば、ZSは革命事業に参加する前のGBの出自に関して、その実像を明かすことをためらっていない。それによれば、未来の使徒兼首領殿は、「ブカレストの街路で、たったの1--2銭という小さい労賃を稼ぐような男であった。また、GBは読み書きが苦手であった。然るに、その後GBは亡命者の間でも傑出した人間となった」。

(3)Stara Zagora蜂起(1875年9月16日に蜂起を宣言)の失敗
  SZ蜂起と言う、革命家・テロリストとしてのGBのデビュー劇もまた、不成功に終わった。ZSが報告するように、帝都Istanbulでの放火は、まさにGavril Hlqtevが率いる30名ほどの同志の部隊に託されていた。この放火にこそ、蜂起に関する印象を大きなものと見せる効果が期待されていたのだ。この放火を始め、全てのSZを中心とするブル各地での蜂起の試みは、ことごとく失敗し、完全な失敗に終始した。
   (注:「Starozagorsko vqstanie=SZ蜂起」の実質的な現地計画は、St.Stambolovが立案し指揮したのだが、残念ながら準備不足の上、「予想に反して」一般のブル人達の参加が全く得られず、少数の蜂起軍はたちまち各地で孤立し、蹴散らされたという。逮捕された闘士たちの一部は見せしめのため絞首刑などにされたが、大部分は小アジア地方に追放処分となった由。)

(4)Benkovskiの名前の由来
  ちなみに、上記の帝都での放火作戦(中止指令がHr.Botevから届き、不発)に際し、Hlqtevが入手、使用した旅券が、Anton Benkovski名義のポーランド人の旅券だったのだ。そして、後にGeorgiというファーストネームをGBが好み、この名前とBenkovskiの姓を使うことにしたので、結局Georgi Benkovskiとの名前が歴史の中に残されることとなった。(注:革命家たちは素性、故郷などがトルコ側にばれることを怖れて、仲間たちの間でも偽名、綽名を使うことが多かったという。)

(5)四月蜂起(1876年)
  しかし、まさにこの男にこそ、ブル民族解放運動における最も画期的な闘争の諸ページが与えられた。同人こそが、1876年4月第4革命区における輝かしい闘争の組織形成を担当し、戦闘の指揮を執ったのだ。

  この偉大な、かつ、悲劇的な国民「史詩(叙事詩)」的闘争に関しては、多くの研究がなされたが、他方でこれを経験した者は少ない。とはいえ、これら少数者たちは、ある程度回答できよう:どこまでGBが(指揮官として)成功を確信していたのか、どの程度まで、前もってその悲劇的な結末をはっきりと予測していたのか、或はそれにもかかわらず、どれほど大きい反応が全欧州から得られるか、について予測していたかだ。・・・これらに対する回答を出してくれるのは、実はまたもやZahariy Stoyanovだけなのだ。ZSは次のように報告してくれている。Lisets峰(Panagyurishte町西方のSredna gora山脈内の一つの峰のこと)とPanagyurishte町(Pazardzhik県北部の町)が燃えているのを見て、GBはこれらを指さして次のように叫んだ:「わが目的はすでに達成された!暴君(オスマン政府)の心臓には、自分が激辛の傷を与えたので、もはやこの傷から回復することはあり得ない・・・」。

  (小生注:ZS自身が、この『蜂起の記録』に関して「アイドルを生み出したかったのだ」と述べていたはずで、要するに、脚色的な台詞(せりふ)であり、場面設定と思う。歴史事実としてP町などでの放火がある程度成功したのであろうが、ほぼ文盲のGBに、英雄的な名台詞は怪しいのだ。もっとも、演説など弁論は得意だったらしいので、名台詞も案外にふさわしいのかも。)

(6)実質GBが司令官相当の活躍
  Gyurgevo(ルーマニア語ではGiurgiu=ジョルジュ、ブルのRuse市のドナウ川対岸にある町)に所在した(ブル)革命委員会(GRK)は、第4革命区の使徒Panayot Volovの副司令官としてGBを指名した。1876年年初、両名はドナウ川を渡り、Panagyurishte町に赴任した。GBはVolovよりも組織活動が上手で、実質的に蜂起準備を指揮した。また、GBは、Oborishte集会*を指導した。この集会は、蜂起の準備について打ち合わせ、確認をしたもので、今日ブル国会の最初の会合とも見做されている。

  (*注:Oborishteとは、Panagyurishte郡内のSredna gora山脈内にあるPanova川の渓谷に所在する場所で、Lisets峰の麓にある林。P町から見て西方。このOborishte林の場所(注:現在はObrorishte村がある地区)で、1876年4月14--16日第4革命区の指導者、代表たちが集まって会議した。四月蜂起(本当の決起予定は5月1日だったのだが)を宣言することが決議され、後世この場所には記念碑が建てられた。
  ちなみに、ソフィア市中心部の国立図書館の北側は、Oborishte通りとなっていて、ブルジョア時代に建てられた洗練された邸宅が並ぶところだ。社会主義時代、この通り近辺では、共産党幹部たちが、ブルジョアたちから接収した元富豪らの邸宅を占拠していた。


  4月20日(新暦では5月2日)Kableshkovから血の付いた書簡が届き、(情報漏れがあったので、決起期日を前倒しして)Koprivshtitsa町で蜂起を実行したと知らせてきたので、GBはPanagyurishte町でも蜂起を宣言した。第4革命区で、GBの部隊が一番準備が整っており、Benkovskiが形成した騎馬部隊(konen otryad)・・・後に「飛行チェタ(Hvqrkovata cheta)」と呼ばれた・・・は第4区内の蜂起部隊を巡回し、組織し、勇気づけた。

(7)本気で村人を戦わせるためには、自分らの村を血で汚れさせて、罪人としてもう逃げられないところにまで追い込め
  GBは、本能的にブル人心理に対する深い理解力を保有していた。同人は、村人たちに、トルコ人の畑の警備員たちを見かけたら、すぐに殺せと命じた。ZSが、これに反対し、無駄な流血ではないかと言うと、GBは次のように反論したという:「自分は、わが方にほんの少しの不利な情勢が生じても、彼ら村民出身の蜂起者らは・・・銃を放り投げて、またもや暴君らの刀の下に頭を下げるだろうということを知っている。他方で、自らの村を、数人分の血と死骸で汚した場合には、話が別になるのだ。自分らが既に罪を犯し、逃れようがないと知っている場合は、彼らはあなたや自分以上に熱心に、本気で戦うのだ」*と。
   (*注:確かに、ブル人の心理を突いた言葉だが、まるで毛沢東のようで怖い言葉だ。)

(8)Benkovskiが村人らに強制した犠牲、自らも捧げた犠牲のおかげで、「ブルガリア問題」が国際問題と化し、ロシアが解放戦争に立ち上がらねばならない情勢を作り出した
  他の人々に対して、大きな犠牲を強いたGBだが、同人は自分自身もこの犠牲から逃れたりしなかった。そしてこの犠牲の大きさこそが、「ブルガリア問題」を欧州の中心議題に嵩(かさ)上げし、解放戦争としての1877--78年の露土戦争に倫理的な基盤を提供することとなった。

  ブルガリアは、もしかするとGBの犠牲、1876年四月蜂起の犠牲、或はBatak、Perushtitsaにおける犠牲が無くとも解放されえたのかもしれない。「もしかすれば!!」。しかし歴史を後世の人々の知恵で審判することは止めよう。Vqlyu爺さんと言うブル人の告げ口で、GBは四月蜂起鎮圧後、Teteven地方のバルカン山脈内、Kostinya川河畔の待ち伏せで殺害されたのだ。

   (注:Teteven町は、Lovech県西部。この町は、Panagyurishte町から北に50kmほどに位置する。GBの騎馬部隊が蜂起を扇動して回って、住民たちの一部が蜂起に参加したパザルジック県南東部のBatak町、及びPlovdiv県南西部のPerushtitsa町、などでは、Bashibozuk部隊(トルコの非正規部隊)が鎮圧に出動し、一般住民と蜂起参加者の区別もつけず、教会内に逃げ込んだ市民らを教会ごと焼き殺すなどの残虐な方法で報復したので、これらが西欧の新聞に報道され、「ブルガリア問題」として国際問題化した。特に、「Batakの悲劇」は、有名だ。次も参照:http://79909040.at.webry.info/201012/article_12.html

(9)100年を経てもZSの記録以外の人物像は見付かっていない
  Zahriy Stoyanovが書き残した『蜂起の記録』以外にGBについては我々が知り得るデータはほとんどない。100年を経ても、歴史家たちはこの人物に関してはほとんど新しい、正確なデータを見付けることができないのだ。「この男は、成功しなかったabadzhiya(注:abaと呼ばれる山羊の粗い繊維で作られた、フェルト生地の重い外套・・・オスマン時代には、羊飼いから軍人までが、厳冬期にはこの外套を羽織ったので、aba工場は重要な手工業・産業であった。この工場で働く職工、或はabaを売る商人たちをアバジーヤと呼んだ)で、アナトリア半島を放浪した。敬虔な信者だった両親から生まれた子息だが、同人は府主教様の椅子を乱暴に投げ捨てるようなことを平気でした。この男は、部下の軍隊を持たない将軍で、肩章も持たない軍人で、トラキア地方の同人の自宅を焼き尽くす火災に際しても、何ら動揺などしない人間なのだ」・・・この程度しか伝承されていないのだ。

  何しろ当時のブルガリアは若い国家で、国民もある意味若かったし、詩人たちだった。この故に、ZSがGBについて書いたことが全てであり、今更同人の人物像を列聖する(美化する)などと言うことは困難だ。 
  また、GBがどうしてこういう風に民族解放運動に参加したかについて、或は同人が時折見せた政治的動きの無軌道性などについても、その社会的背景、動機などを探ることも簡単ではない。

(10)ブル人の歴史に重くのしかかる無気力と言う引け目を追い払ってくれる後光(頭部光背)としての役割
  恐らくは、その方がよいのだ。そのおかげで、一人の真実の、いかなる欺瞞化もなされていない、本物のBenkovskiが我々の前にいるのだ。また、それが故に、むしろ2倍もより影響力のある、火を噴くような人物としての同人が存在するのだ。
  ブル人にとってGBは、我々の歴史の記憶の中に重くのしかかっている無力感、無気力を、ある程度は影に追いやってくれる、そう言う感動的で、半伝説的な後光なのだ。

    【小生注:(1)後光としての役割の意味
  この部分の記述は、分りにくいかもしれない。解説すると、ブル人達は実は約500年近くもオスマン・トルコの支配下に隷属していたが、この間さほど大きな蜂起、反乱などは起きていないし、ルーマニア、セルビア、ギリシャ、などがより先に半独立とか、独立を勝ち取っていったのに、それでもなおブルガリア国内で人々は蜂起する気配が無かった。こういう時に、GBは敢然と立ち上がり、村人たちに人殺し(トルコ人殺し)さえ命じるなどして、反乱を重大事件と化し、このことで国際世論を動員し、露帝国も動かざるを得なくした。GB自身は、元来がさほどのインテリとも言えず、単なる激情家にすぎないが、とはいえ一番凄味のある革命家とも言えた。

  GBという後光を抱えた人物像があるからこそ、ブルの民族解放闘争に自前の革命という感動も与えてくれるし、ブル人達の一般的な無気力に対する免罪符として、英雄としての役割も演じてくれている、と言うこと。いわば国民の自尊心を満足させてくれる英雄なのだ。

  Stefan Stambolovのようなのちの英雄も、SZ蜂起では、無分別な楽観論過ぎて、大きな失敗を喫したし、帝都での放火を命じられたGBも、初めての外国の地でのテロ行為は・・・本部からの指令で中止となり、不完全燃焼に終わった。それでも、四月蜂起という流血の惨事が歴史に記憶されなかったならば、ブルの歴史も、自前の解放闘争部分を欠いた、ロシア様だけが偉かったという歴史になっており、その後の独自性のある歴史展開部分が欠落していたであろう。これで、ロシアの後継者ソ連に占領され、衛星国として生きながらえた歴史が無かったならば、更に良かったであろうけど


  (2)韓国「反日感情の正体」との連想
    ちなみに、このブル人の無気力ぶり、500年ものトルコ支配に甘んじて、さほど抵抗することもなく、平和に暮らしていたことへの苛立ち、これを少しでも晴らしてくれるのが、GBのように、本当に自らの命を投げ出して反乱を起こすという蛮勇の志士がいたこと、そして、Batakなどで一般市民らも焼き殺されたという、西欧市民を激怒させた「悲劇」すら、このGBの演出で起きた事例だ(本当に村人まで蜂起したからこそ虐殺された)とすると、確かに、ブル国民に真の英雄像、分り易い英雄像を示して、ブル国民の自尊心を救った、と言うことの重要性も理解できる。

  ところで、小生は最近韓国に長期滞在している産経新聞記者の黒田勝弘著の『韓国 反日感情の正体』(13年6月、角川Oneテーマ21、新書)を読んでいるのだが、この本のp76に、次のように書かれているので、そうかこれがこのGBに関する評価として「偉人百選」著者たちが言っている言葉の背景なのか、と思った。

  少し端折りながら要点を記すと次の通り:
   「竹島問題はもはや韓国にとっては領土問題ではない。韓国にとって独島問題は、韓国史の見果てぬ夢である対日独立戦争になっている…というかそう思いたがっている。
   韓国の日本に対する鬱憤は、日本に支配(侵略?)されたことよりも、その支配を自力で打ち破ることができなかったことにある。韓国は竹島を舞台に日本と「疑似戦争」をしているのだ。この「戦いの気分」こそ竹島問題の核心である。竹島をすでに長期にわたって実効支配しているのに、また奪った側であって、国際的常識では黙っている方が得なはずなのに大声で騒ぐのは、そのせいだ。戦争は相手が攻めてきてこそ戦争になる、韓国はしきりと日本を挑発しているのだ!!


  支配された側は、その支配にある程度の合理性も、長所もあった、という点に関しては、決して素直に見ようとはしない。日本が韓国近代化のために、いかに多額の教育投資をしたか、いかに貧しすぎる朝鮮半島の経済に鉄道、電気、ダムなどのインフラ整備に多大の投資をし、近代工業を興してやったか、とか、コメなどの農業面での自給自足が可能なように、投資、支援したか、などと言っても、韓国人には有難迷惑な、聞きたくもない話なのだ。日本の統治が良心的で、韓国人を近代人にしてくれたなどという話は、却って彼らをいらだたせるだけなのだ。

  彼らの自尊心を救えるのは、伊藤博文を殺したテロリストを崇めたり、親の経済的困難を救うために売られて売春業で稼いだ話(実際には、慰安婦の2割のみが朝鮮系で、日本人が4割だったと言うが、日本人は誰も提訴していない)を、日本の軍隊に強制連行されて、体を弄ばれたと嘘の証言までして、日本に道徳戦争を仕掛け、国際社会で日本に敗戦を喫せしめること、精神的な復讐を完遂することしかないのだ。なにしろ、実際には第二次大戦末期ですら、米軍による空襲も経験せず、平和に暮らし、日本統治に満足し、日本軍に志願して士官学校に通い、中には神風特攻隊にまで参加したような「親日家系」が結構多く存在した、などと言う忌まわしい過去は、何とか抹消したいけど、有効な手段が不足しているのだ。
  だから、ありもしない妄想の歴史教科書を出版するし、ありもしなかった対日独立戦争での勝利を夢見て、独島に行って勝利の雄叫びを挙げたり、普通の売春婦を少女慰安婦像(当時売春婦にも年齢制限があったのを無視している)として造形し、非人道的な日本人という架空の敵をこしらえて、日本大使館の真ん前で、延々と毎週嫌がらせ行為を繰り返すのだ。

  幻想の対日独立戦争を、幻想の慰安婦問題・・・と言うフィクションに代替することで、「一生懸命に今戦いたい」だけなのだ。ここまで隣国に対しての無礼を働いてさえ、自分たち自身を「幻想の独立戦争の英雄」に格上げしたいという心理的欲求があるらしい。もっとも、本当の戦争ではない「疑似戦争」でどれほどの心の救済が得られるというのか??・・・

  ともかく、「独立戦争を戦わなかった」という自責の念、罪悪感、戦わなかった過去の自民族に対する恨み辛みを、今あらゆる手段で日本人に危害を及ぼすことで、少しでも晴らしたい・・・ということらしいから、本当にもう、この国とは一切の付き合いをやめるべきだ。
  日本大使館もソウルから引き上げ、撤廃し、在日韓国大使館も追放するか、その門前に「売春婦像」でも建設してやればよい!!・・・・言い過ぎました。しかし、どこかで十分に仕返ししておかないと、日本国民の方も鬱病になってしまいかねない。】

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック