偉人百選:イヴァン・アセン2世王

  52番目の偉人は、中世ブル第2次王国期の5代目の国王(統治期間が23年と異例の長さ)であるIvan Asen II王です。
  この王は、王位を簒奪した伯父のBorilに殺される危機を子供の頃に経験し、南ロシアにまで亡命(逃亡)し、その後成人してロシア人傭兵とともに帰国し、Borilの目をつぶして王位を奪還(1218年)しました(注:中世期盲人は国王位に就けないという慣習があった)。

  また、十字軍としての遠征に不成功で、疲れ果てて南の国境に到着し、ブル領土の通過許可を要請したハンガリー王に対しては、同人を脅して有利な約束を取り付け、北部セルビアの領土を回復した。

  更には、Constantinople 奪取と言うバルカン半島の諸勢力の「夢」において、競争勢力であったEpirusの太守(Salonicaの皇帝と自称)とのKlokotonitsaでの戦い(1230年3月)では、高速度の南下で敵を驚かし、大勝した。この戦勝により、ブル国は、バルカン半島の西部(マケドニア、アルバニア地方、ギリシャ北西部)、南部(トラキア地方)を奪取して、バルカン半島最大の領土を治める大国となりました。

  IA王は、その後の軍事作戦では、Constantinople の包囲・攻城戦では2度も結局成功しなかったほか、外交戦略面でもニケーア帝国と組んだり、ラテン帝国と組んでみたりで一貫性を欠いて、必ずしも成功を収めることはできなかった。
  とはいえ、中世当時の国際環境の中では、相当に幸運で、成功した君主であったと言えます。

  巧みな外交を駆使することで、ブル教会を総主教座を保有する、エルサレム、アレクサンドリア、アンティオキア(シリア)、コンスタンチノープルと同格の独立系教会として国際的に承認させたこと、更には、国内の教会、修道院に対して、多額の寄進を実行し、立派な教会建物を次々に建設させたこと、など、宗教面では、ブル歴史に残る偉大な功績を残しました。

52.イヴァン・アセン2世王=タルノヴォ市に「ブル総主教座」を確保した君主(??1195---1241年、統治期間:1218—41年)
  Tqrnovo市「Sv.40mqchenitsi(聖40名の殉教者たち)」教会に所在するIvan Asen II王の碑文:「自らが統治した1200年代に、ギリシャ軍を壊滅し、Teodor Komnin殿*自身をも追い払った・・・。更には全てのビザンツの土地----Adrianople(Edirne)からDrach(アルバニアの港湾都市Durres=Dyrrhachium)まで---すなわちギリシャ、アルバニア(arbanashka)、セルビア---を奪取した。帝都(Constantinople)付近の都市とか、或はこの町(Constantinople)そのものも、フランク軍(十字軍)が領有していたが、彼らもわがブル王国の右腕の下に屈服したのだ」。
   (*注:Theodore Komnenos Doukasは、Epirus(現在のアルバニア南部からギリシャ北西部地方)のDespot(太守)としてIvan Asen II王とKlokotnitsa(現在はブル南部Haskovo市北西の村)の戦いで対決し敗北した。)

  Ivan Asen II王は、Asenevtsi朝(Asen王朝)の第4番目に注目すべき業績を上げた君主だ。この君主の時代に、第2次ブル王国はその国力の頂点に達した。中世のブルにおいて、最も注目すべき君主であるし、ブル国の領土もバルカン半島の大部分を占めたし、ブル国家基盤を確立した。特に外交的手法で、ブル国の権威を高めたし、独立のブル教会:「ブル総主教座(Bqlgarska Patriarshiya)」を「復活」した(注:Antim総主教代理の項(http://79909040.at.webry.info/201409/article_17.html )で説明したように、ニケーア帝国との交渉において、外交的戦術として、過去に存在したのは「ブル大主教座」だったことには「ほっかむり」して、「総主教座の復活」を要求し、賛成を強いたのだ。)。

(1)出生
  Ivan Asen II(注:Yoan Asen IIという呼び方も存在する)は、恐らくは1195年頃に(原注:他の著者によれば、1190--92年頃に生まれた模様と言う)Ivan Asen I王(統治期間1190--96年)の長男として誕生した。皇太子として育ったので、当初から第2次ブル王国の国家的理想を追求する姿勢を持っていた。
  (注:Asen王朝の初代はPetqr II王、2代目はIvan Asen I王で、第12番目の偉人の項を参照。また、第3代目の王はKaloyan王で第15番目の偉人の項を参照願いたい。)

(2)王位簒奪者Borilとの戦いに勝利
  王位はAsen王朝3代目のKaloyan王(1197--1207年)を殺害(1207年)したBoril(AsenとPetqr兄弟の甥、IAにとっては伯父、在位期間1207--18年)が横取りしたので、Ivan Asen I直系の子息であるIvan AsenとAleksandqrの兄弟は、まず南ロシア地方にまで逃亡するしかなかった(兄弟はまだ8—11歳ころであったという)。
  10年後の1217年、少数のロシア人傭兵部隊とともに戻って来たIvan Asenは、最初ブル北部に駐屯し、これにブル国内から徐々に貴族たちが合流・参加してきた。結局大部分の領土がIA側に奪回され、残された最後の砦、首都Tqrnovo城に籠城(7か月)したBorilだが、都の貴族たちがIAとの裏交渉で合意に達し、彼らが1218年に開門し、Borilは遂に逮捕され、IAの命令で目を潰された。1218年、同人はIvan Asen II(Yoan Asen II)として王位を奪還した。  

(3)王位に就いた後の課題
  Ivan Asen II王の業績は、主として外交的成果に関してよく知られているが、内政面での当時の様子は、実はあまり有効な文献が残っておらず、この故に間接的な証拠に依存して推測するしかない(金貨が鋳造、発行されたことなどから、かなり経済的には繁栄したと見られている)。

  簒奪王Borilの時代にブル王国は、領土の半分を喪失した。一部の領主・貴族たち(bolyari)は中央政権への臣従を拒んだのだ。この故に、Ivan Asen II王が即位した当時は、ブル第2次王国は、3流の地域勢力にまで墜落した国家を継承したと言える。つまり、①Asen王朝としての国内的権威の再樹立、②国家領土の回復、③外交的権威の再確立が課題となった。1218--41年にわたる統治期間を通じて、Ivan Asen II王はこれらの問題を解決していかねばならなかった。そして、同人はこの課題を成功裏に解決していき、ブル国家は再び南東欧欧州地域における主要政治勢力として再建された。

(4)領土の回復、更には、バルカン随一の強国としてブル王国が出現
(ア)ハンガリー王女との結婚でセルビア北部を領土内に回復

  Ivan Asen II王は、領土の辺境部Beograd(セルビア北部の町)、及びBranicevo(Beogradから少し東方の町)の領土に関しては、1221年に義父となったハンガリー王Andrey IIから、嫁の持参金として受領した。
   (注:『ブルの王たち』によれば、1219年、シリアに向けての十字軍活動に失敗して帰国途中のハンガリー王Andrey IIが、ブルの南の国境地帯トラキア平原に到着するという幸運に恵まれた。IA王は、ハンガリー(マジャール)軍がブル領土内を通過して故郷に戻ることを許可するが、その条件として、ハンガリー王の娘との結婚を承諾させたという。

  A王は、ローマ法王からの許可が必要との言訳で、婚姻の約束履行を遅らせたが、遂に1221年法王Honorius III(第177代法王、http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_popes#6th.E2.80.9315th_centuries)の賛成を得て、Anna-Mariya姫がブル王の妻(王妃)と宣言された。IA王は、嫁の持参金(zestra)として、過去にBoril王がハンガリーに割譲したBeograd、Branicevoの両県地方を奪回することができた
。)

(イ)ラテン帝国皇帝、ニケーア帝国皇帝とも「一応親戚」となった
  更にこのハンガリー王女との婚姻を通じて、IA王はラテン帝国皇帝とも親戚となった(皇帝の一人の娘がA王の妻)し、更にはこのA王の子息とNicaea帝国皇帝Theodore II Laskarisの娘Mariyaとの結婚が既に決まっていたのだ。

  ブル国がバルカン半島中央部という地政学的に有利な土地に所在することが、IA王による外交において諸隣国が、関心をもってこれに対応した理由でもある。

(ウ)ラテン帝国奪取競争で、Epirus太守の大軍を撃破した(1230年)
  ラテン帝国皇帝(Latin Emperor、http://en.wikipedia.org/wiki/Latin_Emperorを参照)のRobert(在位期間:1221–1228)の死後、若年の弟Baldwin II(1228–1261)が帝位を継承したが、IA王は、同人の義父*として、また摂政として、ラテン帝国を支配する機会を有していた。
  (注:IA王の娘ElenaとBaldwin IIを結婚させる、という噂をラテン帝国側が故意に流し、ブルとEpirusの両国の対決を誘発したという。要するに、陰謀外交の結果として、Epirusとブルを戦わせ、ラテン帝国の存続を画策したらしい。

  この構想は下記のEpirus太守(Salonika皇帝と自称していた)の反対などで実現しなかったが、IA王は南方に向けて領土拡張を図ることとした。かくしてIA王は、1230年3月9日、「Klokotnitsa における戦いhttp://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Klokotnitsa)」で、以前(1221--22年)の同盟者であったEpirus太守Theodore Komnenos DoukasとConstantinopleにおける帝位をも狙う決戦に臨んだ。Epirus太守は、ラテン帝国を壊滅しビザンツ帝国を回復するのは自分だと思っており、ブル国王をその障害と考え、相互不可侵条約を一方的に破って北進してきた。IA王は数千名(1千名以下という説もある)というコンパクトな軍勢を率いて、たった数日で南下しKlokotonitsa村でEpirus軍を迎え撃った。Epirus軍は、予想よりも早すぎるブル軍の到来に驚き、敗北し、ほぼ全滅に近い負けっぷりとなった。
   (注:ブルとEpirusとの間では、IA王の最初の結婚による娘MariyaとEpirus太守の弟Manuilとの間の結婚で、同盟関係が成立していたのだが、Constantinopleをどちらが先に奪取するかで競争となった。IA王はEpirus軍の捕虜たちの多くを解放したという。)

  この戦争の後バルカン半島の勢力図は完全に塗り替わり、ブル王国が第一の軍事勢力として君臨することが可能となった。Epirus国家は完全に消滅し(ブル国がトラキア地方、マケドニア地方、Epirus地方も領有するようになり、よってアルバニアのDurres港さえ領土とした)、ブル君主の権威はSolun(Salonika)市に達し、同市はIA王の娘婿のManuil Komnin太守が統治することとなった。
  なお、セルビアの土地においても、IA王の影響力は強化されたことを付言しておこう。

  更には、Athos聖山に対するブル国の庇護権力が増大したことが、1230年にIA王がこの地を往訪したことからもうかがえる。

(5)Ivan Asen II王の最大の功績:東方正教会系列に完全復帰し、しかもオーソドックス世界内で独立の「ブル総主教座」の地位を獲得した
  IA王がこの「百選」の中で占める順位の理由は、ブル王国の領土を拡張したという理由によるというわけではない。この大領土は、同王が死亡後はあっという間に失われ、記憶にしか残らなかったのだ。

  むしろIA王の功績としては、①ローマ・カトリック教会とのUnion状態を終結し、ブル教会をオーソドックス(正教会)の懐に戻したこと(注:1204年、Kaloyan王の外交の結果として、ローマ法王から、ブルの「総主教」としてVasiliyが叙任されていた。)、②1235年夏に、初代のTqrnovo総主教Yoakimが任命されたことが重要なのだ。

  実は、ローマ教会とは分離する、とのIA王の意図は、ブルの「首座主教(primate)」であったVasiliy自身がこれに反対する(注:上記の通りKaloyan王時代の1204年にローマ枢機卿から直接「総主教」職に叙任されたのが、このVasiliyだから、その意味では反対もやむを得ないかも)という、予期せぬ展開があった。Vasiliyは、抵抗の意味で、Athos聖山内に隠遁し、間もなくそこで死亡した。

  Vasiliyの死後となったが、IA王は、ニケーア帝国との外交を通じ、全地球座総主教(Vselenskiya patriarh、在コンスタンチノープル総主教座のこと)のGerman IIの協力を得て、Tqrnovo総主教には、Yoakimが1235年夏叙任された。かくして、教会法的にも、僧侶位階制的にもブル教会が抱えていた矛盾(注:教義的には正教会だが、最高僧侶(総主教、大主教など)の叙任はローマ法王が行う、と言う矛盾が生じていた)は解消され、ブル教会は東方正教会の中でその立場を回復できた。

  また、1235年春、Galipoli半島におけるIA王とニケーア皇帝John III Doukas Vatatzes(15 December 1221/1222–3 November 1254)の会見と両国による対ラテン帝国同盟条約の締結が行われた。
  更には、海を渡り、小アジアのニケーア帝国領内で、IA王女Elena(Anna-Mariyaが産んだ娘)とニケーア皇太子Theodore II Laskarisとの結婚式、及び、東方正教会高僧たちの「集会」も開催された。この教会会議において正式にブル教会「総主教座」の独立的地位も承認され、この「集会決議」には、当時の東方正教会系総主教の全員が署名した:Constantinople総主教、Antiochia(シリア)総主教、Jerusalem総主教、Alexandria(エジプト)総主教

 【注:(1)ニケーア帝国との同盟条約(1235年春)は、ラテン帝国を念頭にしての提携
   Galipoli半島でのIA王とNicaea皇帝の会談で、二国間の同盟関係などが合意されたが、その後小アジア領土にはIA王は渡らなかったという。ニケーアの法律では、外国君主が小アジア本土の領土には入れないとの規制が存在したという。もちろん、IA王としても海を渡って他国領内に入ることには危険が伴うと言える。
  IA王としては、せっかくEpirus太守を敗北させて、Constantinople攻撃を準備していたのに、ラテン帝国側が摂政としてJohn(Yoan)of Brienneを迎え(1229–1237年:摂政期間、ただし、コンスタンチノープル到着は1231年8月、また、Yoanは摂政と言うが、実際には戴冠していたらしい)、幼少のBaldwin II帝を補佐させたので、簡単には攻略できない事情となり、ニケーア帝国との同盟で対処する必要性が生じたのだ。ニケーア側としても、軍事大国となったブル国と同盟して、ラテン帝国の脅威に対処することは必要であり、ブル王王女と子息皇太子の結婚は望ましい形だった。また、ブル王の機嫌を取るためにも、「ブル総主教座」を承認させたのであろう。

 (2)Yoakim総主教の誕生(1235年夏)
   時系列で言えば、春の東方正教会系列高僧たちの「集会」で、ブル教会に「総主教座」が承認され、この結果として、同年夏、或は秋に、Yoakim(同人は、長年Athos聖山で修業した修道僧で、ブルに帰還後、以前からIA王が目をかけてきた人物であるという)を正式にGerman IIが「ブル総主教」職に叙任した(書面での叙任らしい)ことになる。
   一旦正式の手続きを経て、総主教として認知されれば、その後は「独立教会としてのブル総主教座は、自らの手で後継総主教、或は高僧たちの叙任もできる」こととなり、コンスタンチノープルの「総主教座」に僧侶人事などで干渉されるいわれはない。とはいえ、ブル教会が東方正教会の世界で、正式に「総主教座」を取得した背景には、ブル国とニケーア帝国が、コンスタンチノープルに居座っている十字軍によるラテン帝国を絶滅するための「同盟関係締結」という外交・軍事的背景を伴っていたというから、その意味でもスケールが大きい話と言えよう。】
  

  結局総合して見れば、IA王の功績としては、特にブル教会の確立事業に関連する業績が大きく見えてくる。後の書には次のように称えられている:「この王は、多くの教会、修道院を創設した。更にはこれらを黄金、真珠、宝石などで美しく装飾し、かつ、神聖な諸教会に対しては多くの寄進をしたし、これらの宗教施設に対しては、あらゆる自由を宣言した(免税特権のこと)。また、全ての聖職者らに対して、尊崇の心を捧げた」。
 

(6)晩年、及び婚姻政策・・・そして禍根
  IA王の晩年は、相対的に言って平和であった。とはいえ、既にモンゴル軍(タタール軍)が時折ブル領土にも出現し始めてはいた。
  他方で、同人の政治・外交政策の基本をなしていた手法が、その後の否定的影響をもたらしたことも確かである。

  例えば、領土的拡大と国家としての権威向上のためには、主として外交的手段に依存していた、特に当時の国際関係における習慣でもあった婚姻政策に多くを依存した。
    自分自身実は3度も結婚を繰り返した:
  ①IAの南ロシア地方への亡命時になされた最初の結婚に関しては、確たる証拠が無い(妾、愛人と言う説もある*)。
  ②2回目の結婚は1221年、ハンガリー王女のAnna-Mariyaとの結婚で、この結婚のおかげでAndrey II王と同盟関係を結び、BeogradとBranicevoの両地方(北部セルビア)をブル領に併合することができた。しかし、1237年、ブル軍とニケーア帝国の同盟軍がコンスタンチノープルを包囲しているさなか、Anna-Mariyaが死亡したとの知らせがIA王に届き、IAは神の懲罰と考え、軍を撤退した。

  ③第3回目の結婚は、Epirus太守だったTheodore Komnenos Doukas(IAが戦勝し捕虜とした男)の娘Irinaとの結婚だ。この婚姻はハンガリー王女で妻だったAnna-Mariyaの死亡後、つまり1237年以降で(注:上記のKlokotnitsaの戦いは1230年であったから、もはや壊滅した敵の娘と結婚したということ。美人であったらしい)、IA王の大きな政治的過失だった**と言える。この時代、国家と王朝は不可分の関係にあったから、王朝の血筋の一体性と継承権の問題は最重要な課題だった。その意味で、IA王は、多くの結婚で、様々な血筋の子孫を残すことで、将来的に王朝内における抗争関係の原因を作ってしまったのだ。そして、もちろん、自分自身が成し遂げた国家的事業の安定的な継承も危ういものとしてしまった。

  (*注:『ブルのハーン、国王たち』によれば、最初の結婚相手は恐らくロシア人のAnnaと言う名前の女性で、二人の娘を産んだという。下記Manuilと結婚したMariyaはこのロシア人妻が産んだ娘。

  **注:IAとIrinaの結婚は、正教会の教義からも容認できないもので、Tqrnovo総主教のVisarionは、この3回目の結婚を祝福することを拒否したという。何が問題かと言うと、既にIAの娘のMariyaが、Manuil Komnenos(Irinaの伯父)と結婚しているので、IAがIrinaと結婚することは、「両家の間で血液が混じる」という正教会教義では許されえない犯罪となるのだ。この「血が混ざる」と言うことが日本人には分りにくいが、ギリシャ正教世界では、現代でも、A家の兄とB家の姉が結婚したら、A家の弟(姉)とB家の妹(弟)が結婚するというような、両家の間での二組目の婚姻は許されないという。儒教も近親結婚を嫌うが、このように元来が近親でない両家の間で、二組目、三組目の結婚があっても、さほど問題とはならないはずだ。この辺りのオーソドックス教会系の「血が混じる」と言う概念は、我々の視点では不思議なものだ。

  とはいえ、IA王はすっかりIrinaに惚れ込んでいて結婚を強行した。その上、この結婚に反対した総主教は死刑に処したというのだ!ブル教会は、復讐としてIrinaに「王妃」のタイトルを許さず、かつ、死刑となった総主教を「聖人」に列福したという。
  当時の文献によると、IA王は、ローマ人(ギリシャ人)などの外国人に偏見を持たず、他の従来のブル王のように、捕虜を大量に虐殺するようなことはしなかった点で、結構外国人らからは尊敬されたという。


(7)偉大な王の一人
  総合的に言って、IA王は、ブル国家の発展にとって深い痕跡を残した諸君主の一人に挙げうるし、同時代の人々からも、次のように称賛されていた:「偉大な国王Ivan Asen、故Asen王の子息・・・、同人よりも前に在位した、他のどのブル人君主よりも、ブル王国の名前を高く上げ、輝かしいものとした」。

(8)死亡
  IA王は、西欧の年代記記録者Alberikによると、1241年6月24日に死亡した、年齢は恐らく46--47歳だったと言う。

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