42-47.9月の祝祭日

   今回は、ブルにおける9月の祝祭日6件を一括まとめました。

42.9月1日:聖シメオンの日(Simeonovden)
(1)由来
  9月1日には教会歴における「新年」とSimeon Stqlpnik*猊下(*注:Stqlpとは柱、塔などの意味で、Stqlpnik というのは、塔の上に居住した隠者を指す)・・・紀元後4世紀に生きた隠者・・・を祝う。
  ブル国民は、この隠者を農業と農村生活の庇護者と見做している。

(2)風習
  ブルにおける祭日の伝統では、この日は秋の種蒔きと関係づけられている。
  小麦の種は、色々な形でお清めを受ける:①まず顎髭(bradata)と呼ぶ小麦の束から小麦の粒を採り、これを細かく擦って種に混ぜる(顎鬚と呼ばれる小麦の束は、収穫時に最後に畑から根ごと引き抜いたもので、ワインをかけ、主人が銀貨を入れて保管したモノ)、②主人は種用小麦を入れた袋を教会に持参し、種に祈祷をしてもらった上で持ち帰る。
  種蒔き初日、畑に行く前に、耕作者は黒い雌鶏を牛(vol=雄牛)の頸木(yarem)の上で屠殺し(注:血で頸木を赤く染め、小麦の豊作を祈るのであろう)、主婦は燃えさし(zhar)を牛車の前にばら撒く・・・これは小麦が燃えさしのように真っ赤となる(熟する)ことを祈願するのだ。また、牛の頸木、家畜の突き棒(oste'n)、耕作者の帽子は花で飾る。
  主婦は、畑に昼食を持参する:新鮮なpogacha(パン)と黒い雌鶏の料理(青いトマト、パプリカ、タマネギなどと一緒に料理)とラキーヤだ。同時に、黒い雌鶏から引き抜いた羽も持参する。黒い羽は、耕作農民が一つの畔の中に入れ込む・・・これは小麦の黒穂病(glavnya')に対する厄除けだ。

(3)Simeon Stqlpnikに関する伝説
  Simeonは18歳の時修道院に入り、一生懸命労働に明け暮れた。ある日、修道院内の僧坊を出て、山の中に入り込み、高地の荒野を見付けた。そこに登り、孤独の中で祈祷に没頭した。しかし、この孤独に耐えられなくなることを恐れ、大きな岩に自らを鎖で繋いだ・・・つまり、あらゆる方法を駆使して、地上における俗世から逃れようとした。
  同人が祈祷に打ち込む偉業を成しているとの噂は、周辺一帯に知れ渡った。そして多くの人々が同人のところに来て、同人を参拝するようになった。彼らを遠ざけ、また自らが偉そうにならないように、同人は40 lakt(lakt=arshin=約70㎝ほどの長さ。40 lakt=28mほどの高さ)ほどの高さの塔を立て、この上に僧坊(kiliya)も作った。
  聖シメオンは、塔の上での生活を数十年も続け、103歳で死亡した。数十年後、同人の遺品(mo'shti)はアンティオキア(Antiohiya)にまで運ばれ、同人の名前を冠して建てられた寺院の中に安置された。

(4)この日に名前の日を祝う洗礼名
  Simeon、Simeonka、Simka、Simo、Simon、Simona、Simcho。

43.9月6日:ブル南北合併記念日(Sqedinenieto na Bqlgariya)
(1)由来
  1885年9月6日、Danail Nikolaev少佐率いる東ルーメリア治安部隊は、東ルーメリア自治州総督Gavril Krqstevichが所在するPlovdiv市の総督官邸を取り囲んだ。治安部隊隊員たちが、総督が寝ていた寝室に同人を逮捕するため入室すると、Krqstevichは次のように叫んだ:「自分もブル人だ。よってこの使命(注:南北合併事業のこと)から一定の満足感を覚えざるを得ない」と。
  (注:GKに関しては、http://79909040.at.webry.info/201411/article_1.htmlを参照。また、Danail Nikolaevに関しては、http://79909040.at.webry.info/201409/article_14.htmlを参照。)
  この日、ブルガリア全土は、嬉しいニュースと共に目を覚ました:南北合併が宣言された、というニュースだ!

(2)歴史
  列強の思惑で、ベルリン条約(1878年)により分断されたブル国土を統合しようという構想は、全てのブル人が抱いた、重要で、取り消せない課題だった。そのブル人が次のどこに住んでいようが・・・①ブル公国(ミジヤ部分、名目的にはオスマン帝国スルタンの宋主権下で半独立だが、実質は独立国に近い地位を得た体制)、②東ルーメリア自治州(トラキア北部、オスマン帝国内の自治州・・・とはいえ、ブル人が自治権を主導する体制)、③マケドニア地方(未だにオスマン帝国領に残された)、④オドリン地方(注:Edirne市を中心とする東トラキア地方、同じくオスマン領のまま)、⑤北ドブルジャ地方(注:ベルリン条約でルーマニア領とされた)、⑥Nish市、Pirot町(注:ベルリン条約でセルビア領とされたブル人居住地域、ブル人から見て、いわゆる「西部辺境地域」)。

  よって、「団結」と言う委員会が各地に設置され、1878--79年には、Kresnensko –Razlozhkoto vqstanie(Kresna郡、Razlog郡・・・共に、オスマン領内に留まった、現在はBlagoevgrad県内のPirinマケドニア地方の町における蜂起)が起き、トルコ軍によって激しく鎮圧されたし、1880年に至っても、このような蜂起の試みは継続されたし、その後も続いた。

  1884年には、ブル国土の併合と言う構想は、いわゆるマケドニア委員会(makedonski komitet)によって担われた。同委員会は、Sofia市、Ruse市、Varna市などのブル公国内の諸都市に形成された。委員会の目的は、マケドニア地方の解放達成と、東ルーメリアのブル公国への併合だった。
  1885年2月、Plovdiv市に委員会が設置され、この委員会は後(4月)に「ブル秘密中央革命委員会=Bqlgarski taen tsentralen revolyutsionen komitet=BTTsRK」と呼ばれ、議長はZahari(y) Stoyanovであった(注:Z.Stoyanovについては、http://79909040.at.webry.info/201408/article_5.htmlを参照)。この委員会の最初の宣言文「東ルーメリア内のブル人に対する呼びかけ」で、委員会は公然と、今後も「2つのブルガリア」が存在し続けることに反対を表明した。

  事前計画では、合併は1885年9月15日に宣言される予定であった。しかし、Panagyurishte町(Pazardzhik県北部)で、9月2日には動きが生じるなど、色々な出来事があって、計画は変更された。P町で3名の若者が逮捕され、町の住民らが抗議のために集合し始めたのだ。当局(注:東ルーメリア自治州の警察)は若者たちを釈放したが、町の鐘が勝利を告げて乱打され、住民らの声が湧きたった:「Rumeliaは打倒されよ!合併万歳!(Dolu Rumeliya, Da zhivee Sqedinenieto!)」。P町に続き、Golyamo Konare村*でも蜂起が起き、現地の委員会指導者Prodan Tishkov(綽名はChardafon Veliki)が、GK村のチェタを率いてPlovdiv市へと進軍した。この際既に、治安部隊の旗が掲げられ、その旗の下に、予備役軍人**たち、以前Plovdiv市の高校生たちが組織し、蜂起に失敗した時の「高校生協会(gimnasticheskite druzhestva)」参加者らも召集された。GKチェタ、予備役軍人たち、元高校生たちから成る蜂起部隊は、市の郊外に宿営した。そして、この臨時キャンプから「戦闘部隊(boyna druzhina)」が発進し、総督官邸を占拠し、総督を逮捕したのだ。

  (*注:現在はPlovdiv県中西部のSqedinenie町から少し北、Golyam chardak村からは少し西に存在した村のようだが、今の地図には図示されていない。Golyamo Konareで検索したら、http://itouchmap.com/?c=bu&UF=-838853&UN=-1234895&DG=ADM2で、地図に表示された
   **小生注:予備役軍人(zapasnyatsite)とは、露土戦争時の義勇軍参加者とか、東ルーメリアで組織されていた民兵部隊=治安部隊からの退役者たち、或は「体育協会(民兵訓練組織)」メンバーたちであろう。)

  そして、臨時政府が創設され、その首班にはDr.Georgi Stranskiが、総司令官にはDanail Nikolaevが任命された。Zahari Stoyanovは、宣言文を起草し、軍隊、国民の前で読み上げた。この宣言文で、秘密委員会は、国民に対し「合併」を擁護するために決意すべき旨呼びかけた。
  9月6日、臨時ルーメリア政府は、ブル公Aleksandqr Batemberg宛て電報を送付し、南北合併を承認するよう要請した。
  9月8日、アレクサンダル公はTqrnovo市で、公式に「合併の勅令(Ukaz na obedinenieto)」を公布し、合併を承認する旨宣言した。翌日、ア公は、Petko Karavelov首相、Stefan Stambolov国会議長に付き添われ、また、道すがらどこでも国民からの大歓迎を受けつつ、Plovdiv市に到着した。
  しかし、南北ブルの合併は、露との関係を先鋭化させ、少し後には露は対ブル外交関係を断絶するに至った。
  とはいえ、9月6日は、ブル国民にとっては明るい陽射しが差した日なのだ。

44.9月8日:生神女誕生祭(Rozhdestvo na presveta Bogoroditsa、Malka Bogoroditsa)
(1)由来
  9月8日にブル正教会は、処女マリヤが、その両親AnnaとYoakimの間に誕生したことを祝う。この日には、小さい子供を持つ母親たちは教会に行き、祝福を受ける。十二大祭の一つ。英語では、Nativity of the Theotokos(神の母の生誕)という。

(2)歴史
  Sofroniy Vrachanski主教が、1768年に書いた説教書で、隷従下にあったクリスチャンのブル人達に、いかに聖母の誕生日について解説したかが、興味深い:
  「敬虔なクリスチャンたちよ、ある国王がどこかに旅したときには、人々は清潔な場所に素晴らしい宮殿(saray)を用意することであろう。同様に天上の王であるIisus Hristosも、今日は自分の化身*に対して、清潔で活気のあるsarayを、すなわち王室級で、高僧級の宿舎を選ぶことを欲するであろう。Yoakimは、ダヴィデ王朝の人間だったし、妻のAnnaは聖職者一族Aaron家の出身だった。彼らは2つの明るい太陽で、この家族からは全世界に向けて光明と陽気さがばらまかれていた。或は、2匹の純粋な鳩であったとも言える・・・その彼らから今日の日に、清純な処女マリヤが生まれ、その彼女が至上の存在であるキリストを産んだ・・・。
  さあ、天上の王よ、いかなる宮殿を今日、あなたの地上の化身*に対して用意しているであろうか。美しく、清潔で・・・すなわち、聖なる処女マリヤはケルビム(heruvi'm、英語:cherub)、セラピム(serafi'm、英語:seraf)の両天使よりも上の存在なのだ。彼女は、言葉と光栄をもって結婚させられ、人間としてのキリストによって、神の母と呼ばれるようになった。そして、あなたを神の母と認知し、尊敬する全ての正教徒たちのために、支援者、庇護者となられた・・・」。                      
  【*小生注:ここで、Vrachanskiは、voploshte'nieと言う単語を2度使っている。この単語は、小生は3種類のブル語辞書で探してみたが、何れにおいてもこのようなブル語単語を発見できなかった。ところが、研究社の露和辞典を調べてみると、この単語が存在し、意味としては「具体化、権化、化身」などと説明されている。18世紀半ば、未だにブル語辞書などは整備されていないし、当時のブル人の教育を受けた人々は、ギリシャ語、ロシア語、トルコ語などには相当精通していたし、ロシア語とブル語の間の相違については、必ずしもはっきり意識し、区別できない部分があったのであろう。文法的な相違は明らかでも、単語段階に関しては、両者の差異は不分明で、ロシア語にあっても、ブル語にはない単語などは、うっかり使用してしまってもおかしくは無かったのだ。この本の著者Elena Ognyanovaにしてみても、社会主義時代にブルの義務教育でロシア語は必須科目だったから、このように今ではロシア語辞書にしかない単語が含まれていても、自分が理解できるし、ロシア語とは意識できないので、注釈もつけずに、そのまま見過ごすのであろう。
2月27日追記:上記のように書いたものの、小生としても本当にこの単語がブル語辞書にないのか、少し引っ掛かりを覚え、更に確かめてみたところ、vqplqshte'nieという少し綴りを変えた形で、ブル語辞書にもこの『化身』に相当する単語が掲載されていることが分かった。ロシア語のoが、ブル語のqというアとウの間の曖昧母音に変化したのみでブル語辞書に存在しているのであり、Ognyanova著者がロシア式綴りをブル式に変化させず、そのまま記したというか、Vrachanskiの記述をそのまま引用した、と言うことであろう。】

45.9月14日:十字架挙栄祭(Krqstovden)
(1)由来
  9月14日は教会歴では、栄光の神の十字架が行進した日=Krqstovdenと記されている。この日教会では、キリスト教の聖遺物(hristyansakata svetinya)の歴史で重視される2つの出来事を祝う:①キリストの十字架の発見、②この十字架をペルシャによる捕獲から、7世紀(627年)に解放した事。
  十二大祭の一つ。英語:The Holy Cross Day。

(2)伝説
  ローマ帝国の君主たち、そして特にエルサレムの総督は、キリスト教信仰の急速な普及に怖れを成していた。彼らはキリストが十字架にかけられた場所、及び埋葬され、復活した場所などを掘り返し、これらの場所から掘り出された土は、町の外に捨てよと命じた。そして、これらの場所そのものには、自然崇拝系の神々の神殿(svetilishte)を建立せよと命じた。

  紀元後3世紀の間、クリスチャンたちはキリストが磔にされた十字架の所在地を知らなかった。後に、Konstantin大帝とその母Elena太后が、この十字架を探し始めた。K帝はキリスト磔刑・死亡の場所を発見するよう命じたし、また、Golgotaの丘と想定される場所に壮大なキリスト教の聖堂を建立した。

  伝承によれば、Elena太后自らこの探索と発掘作業に立ち会ったという。キリストと2名の暴漢(キリストと一緒に磔にされた犯罪者)らしきものたちの十字架が発見された時、エルサレム主教Makariyの助言で、これら3つの十字架は、最近死亡したばかりの若者の棺桶に触れることで試された。そして、一つの十字架がお棺と接触すると、若者は生き返った。よって、この十字架がキリストのモノだと判明した。キリストの十字架は、銀製の箱に安置され、上記の聖堂に保管された。
  6世紀のアレキサンドリアの年代記によると、K帝が建立した聖堂は320年9月13日にお清めを受け、翌日14日は、キリストの十字架に敬意を表すべき日と決まった。

  その約100年後、エルサレムはペルシャ人たちによって占領された。ペルシャ王は、K帝が建立した聖堂を破壊した。また、全ての教会の看板とキリストの十字架を獲物として持ち去った。しかし同世紀中に(627年)、エルサレムはビザンツ皇帝Irakliy(Hearclius帝=アルメニア人)によって奪還された。ヘラクリウス帝は、キリストの十字架を、自らがGolgotaの丘に担ぎ上げて戻した。この皇帝の十字架運びには、町の住民たちが棕櫚の枝を運びつつ・・・付き従った。 

(3)伝統、習慣
  現代の正教系教会の奉神礼では、この十字架挙栄祭には、聖職者が十字架を教会内の真ん中まで持ち出し、信者たちはこれに拝礼する。
  また、この日は、信者たちは精進料理に徹する(断食する)ことが義務であって、特に赤いモノ・・・トマト、赤かぶ、赤ピーマンなど・・・は食さない。 
  
  国民はこの祭り、断食を尊重する・・・腰痛にならないようにだ。この頃に、一部地域ではブドウの採取が始まるし、他の場所ではクルミの木を叩いて実を落とす作業を開始する。

(4)この日に名前の日を祝う洗礼
  Kristin、Kristina、Krqstan、Krqstana、Krqstin、Krqstina、Krqstyo。


46.9月17日:聖殉教者ソフィアと娘たちの日(Sveti mqchenitsi Sofiya,Vyara,Nadezhda i Lyubov)
(1)由来
  この日9月17日には、高貴な家系出身のローマ人女性Sofiyaを追憶する。同女は、知恵と忍耐力に優れ、自らの娘たちを次のように教育した:自らと神に対し信念(Vyara)を持ち、神の良心性へ希望(Nadezhda)を持ち、近しい者たちと崇高なるものに対する愛情(Lyubov)を持つこと。
  英語では、Holy Martyrs Vyara, Nadezhda and Lyubov (Faith, Hope and Love) and their mother Sophia Dayと言う

(2)歴史、伝説
  Sofiyaの知恵のある女性、及び母親としての名声は、現代人の眼鏡に適い、最近ますます高くなっている。
  紀元後の2世紀、ローマ皇帝Adrianの命令でSofiyaと彼女の3名の娘:Vyara、Nadezhda、Lyubovの計4名は惨殺された。彼らの名前は、キリスト教信者たちの間で尊敬され、故に、多くのクリスチャンが、彼らの名前を自分の子供らに洗礼名として付けるようになった・・・ほぼすべての家族にこれらの名前が存在する。
  1879年4月3日、ソフィア市が新生ブルガリアの首都と決まった。聡明なSofiyaは新首都の庇護聖人となり、これに因んで、9月17日は首都ソフィア市の日(Den na Sofiya)ともなった。
  また今日、ソフィア市の中心部には、聖Sofiya像(Georgi Chapkqnovと言う彫刻家が製作した)が建立されている。

(3)この日に名前の日を祝う洗礼名
  Vera、Verka、Vercho、Vyara、Lyuba、Lyubka、Lyuben、Lyubena、Lyubov、Lyubomila、Lyuboslav、Lyubcho、Hadezhda、Nadina、Nadya、Sofiya、Sofiyanka、Sofka。


47.9月22日:ブルガリア独立記念日(Den na nezavisimostta na Bqlgariya)
(1)由来
  1908年9月22日、ブルはトルコからの完全独立を宣言した。
  ブル解放後30年もの間、ベルリン条約の規定に従い、ブルはオスマン帝国スルタンの宋主権下に(従属下に)置かれてきた。このことが、ブルが、他国との間に平等な関係を結ぶことに障害となって来た。そして、当然のことながら、ブルが自由な国家としての権威を持つことを妨げた。

(2)歴史背景
  1908年トルコでは、青年トルコ党革命が勃発し、これがブルにとって完全独立を主張する上で都合のよい契機となった。
  当時ブルの政権を握っていたのは、民主党で、首相は同党出身のAleksandqr Malinov(注:次を参照:http://79909040.at.webry.info/201411/article_2.html。)だった。M首相は、この完全独立宣言に際しては、列強諸国のいずれかから強い支援が必要と知っていた。単独では、1878年のベルリン条約に違反して、この事業を達成できないから。この条約規定に基づき、依然としてブル人が居住する大きな領域が、トルコの支配下に残っていたのだ。
  Ferdinand I公は、墺・ハンガリー帝国支配層にブルの立場への理解を求めた・・・この帝国こそが、フェルディナント公の祖国でもあった。そして、予想しなかったことに、この大国から支持を得た・・・もちろん墺・ハン帝国自身のバルカン半島に対する利害と一致したからだ。

  この墺・ハン帝国の支持と言う立場を念頭に、ブル政府は抜け目なく機会を待っていた。オスマン政府(Visokata porta)が開催したあるレセプション(priem)に、帝都に派遣されていたブルの外交使節Ivan St. Geshov(注:http://79909040.at.webry.info/201409/article_15.htmlを参照。)が招待されなかったのだ・・・なぜなら、Geshovは属国(vasalna dsqrzhava)の使節に過ぎず、他の外交官たちと対等ではないから。

  これを理由(口実)として、1908年9月15日、ブル本国は同人を自国に召還した・・・要するに、本格的な外交紛争を演出したのだ。
  9月19日には、ブル国軍部隊は、ブル南部の鉄道路線(トルコが所有権を持っていた)を占領した。なぜなら、この鉄道の労働者たちがストライキを敢行していて、鉄道運行の再開が必要だったからだ。トルコ人の鉄道社員たちはストライキを止めたが、ブル政府は、同様のストライキがまた起こり得るし、ブル国南部における鉄道交通を麻痺させうる、との口実の下、鉄道路線占拠を解除しなかった。
  ブル政府は、実は長期にわたり、トルコの宋主権を排除しようと、外交的な準備を進めてきていた。そして今こそそのチャンスが到来したと決断したのだ。

  遂に1908年9月22日、中世期の首都Veliko Tqrnovo市で、Ferdinand公は、特別の宣言文書で「ブルガリアの独立」を宣言するとともに、自らの君主としての冠位を「ブル人達のツァール(王)」であると主張した。
   (小生注:それまでは、Knyazという、英語のPrinceに相当するタイトルで、日本語訳は「公」。今回は、tsarという中世期のブルの君主と同じタイトル。ツァール(ツァーリ)はロシア語では皇帝を意味するし、中世ブル国の君主冠位としてはビザンツ皇帝と対等の「皇帝」と訳してもよいが、近代においてtsarは英語でkingとブル政府によって訳されてきた。従って、王、国王、と訳すのが適当で、皇帝と訳すべきではない。
   ただし、tsarはcaesarから来た単語だし、中世のブルがビザンツと対等の「皇帝」として扱われた史実から、ブル人ですら未だに、ブル外務省がtsar=kingと訳してきた事実を知らず、皇帝だと主張する人もいるから困る。ブル第3次王朝期のtsarはkingであり、決して皇帝=Emperorではない
。)

  ブル国家の完全独立の宣言は、特に重要な意味を有した。なぜなら、まさにこの宣言によって、5世紀に及ぶ重いトルコへの隷従の残滓を抹消できたからだ。ブルガリアは自由で、独立の国家となり、その他の欧州諸国と対等の地位を確保したのだ。

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