ブルガリアの現代史:01年以降(1)

  さて、先般まで、ブルガリア歴史に関し、通史を再録してきて、自由化後の歴史に関しては、NDSV政権時の04年頃までを見渡して終了しました。そこで、その後の推移に関して、小生の手元にある記録のみで少々追記しておきたい。

  特に残念なのは、05--09年のStanishev政権に関して、小生の記録したメモがほとんど残っていないので、追記すべき中身がないこと。偶々小生が、その当時にブル内政に関し、十分関心をもってフォローしていない(勉強する暇もなく、他のことに集中していた)ことが原因です。まあ、そういう風に、記録の濃さ、薄さが時期によって異なることなど、欠点は自分でもよくわかるけど、これを埋める手段が今のところ分かりません。ということで、かなり凸凹感のある記述となりますが、一応は記録として残しておきたいと思う。

1.01年夏以降のブルにおける内閣(政権)の推移一覧
(1)01年7月24日--05年8月17日:Simeon Saxe-Coburg-Gotha・NDSV内閣

(2)05年8月17日--09年7月27日:Sergey Stanishev・BSP/DPS/NDSV連立内閣

(3)09年7月27日—13年2月20日:第1次Boyko Borisov・GERB(ゲルプ)内閣。(注:13年2月前半以来、高すぎる電気代(注:ブル人の貧困家庭などでは、室内電気暖房機への依存度が高い)に不満を持つ市民が街頭に出て大規模デモが発生し、政権を維持できなくなったため退陣)。

(4)Plamen Oresharski・BSP主導政権:13年5月--14年8月
  13年3月12日:Marin Raykov選管内閣。(注:上記の通り、電気代問題で第1次Borisov政権が4年の任期途中で倒れたので、選挙管理内閣が置かれた。4年の任期をきちんと満了した内閣の場合は、総選挙実施期間を含めて、次の政権誕生までは、政権を降りる必要性は無い。
  13年5月12日:(第42次普通国会)総選挙実施。
  13年5月29日:Plamen Oresharski・BSP/DPS/Ataka連立内閣。
    ところが、13年7月に、DPSのDelyan Peevski議員(マフィア実業家、との一般認識がある人物。ブルの有力新聞紙の過半数を支配するメディア王でもあった。)をDANS長官(FBI長官に相当)に任命するという「とんでもない人事計画」が発覚して、市民が反発、ソフィア市を中心に、政権批判の街頭デモ行進が長期化し、政権基盤が揺らいだ。このせいで、1年後の14年夏になると、もはやBSP主導政権は持たないことが明白化した。

(5)第2次Borisov・GERB主導政権:14年11月--16年11月
  14年8月5日:Georgi Bliznashki暫定(選管)内閣。
  14年10月5日:(第43次国会)総選挙。
  14年11月7日:第2次Boyko Borisov・GERB/RB/PF連立内閣。
  16年11月14日:Borisovが内閣総辞職を申請。(注:ボは16年11月の大統領選で、G党候補が敗北したら政権交代すると宣言していたので、約束を守って辞職を願い出た。
  17年1月22日:Rumen Radev新大統領が就任式(副大統領はIliyana Yotova)。

(6)第3次Borisov・GERB主導政権:17年5月より
  17年1月24日:Ognyan Gerdzhikov暫定内閣(選管内閣)が発足(Radev大統領が任命)。
   1月27日:第43次国会を解散。
   3月26日(日):第44次普通国会総選挙を実施。
   3月30日:中央選管から、総選挙結果の確定報告:
     GERB=95議席、BSP=80議席、UP(統一愛国者党)=27議席、DPS=26議席、Volya(Varna市のビジネスマンMareshkiの党)=12議席。
  17年5月4日(木):BorisovがRadev大統領に閣僚名簿を手交、直ちに同日国会で、新内閣の信任決議を採択へ。
  第44次国会で、第3次Borisov政権が、G党+UP+Volya=合計134票の賛成で承認された。
  また、この日、Gerdzhikov暫定内閣首相は、宣誓式を終えたBorisov新首相にその(首相としての)地位を引き継ぎ、「成功裏の内閣を祈念しつつ」退陣した。

2.スタニーシェフBSP政権時を中心としたブル内政の推移概要
(1)motton氏の民主主義有権者の権利についての定義
  民主主義の主権者の権利とは何かと原点に戻って考えると、結局のところ、カエサルあるいはナポレオン、すなわちインペラトール(最高司令官)を選ぶ権利なんだと思っています。一つしかない命を托すに足る人間を選ぶ権利だから平等に一人一票なんだと。
  西欧や日米は国家総動員の戦争を何度もやって身をもって理解したのですが、戦後の後発の民主主義国家はまだ理解できていないように思います。
  独仏同盟(≒ EU)で安全になってしまったヨーロッパでは、これから民主主義がどうなってゆくか興味深いです。出した金の分だけ権利が行使できる株式会社のようになってゆくのかもしれません。

(2)シメオン2世元国王が、なぜ国民の信用を失ったか(小生の解釈)
  確かに、選挙における「有権者」というのは、民主主義における最高司令官を選ぶ権利と理解するのは、国民国家として分り易いかも。
  ブルガリア国民も、決してバカではないけど、つい社会全体としては、誤った選択肢を選んでしまうことがある、とも思える。戦時中、慎重居士で、なかなか枢軸国側に参戦せず、枢軸側に加盟しても「対ソ連戦争」への参戦にはNoを貫いた、サックス・コブルク・ゴータ家(ドイツの国王を輩出できる家系。何と今の英国王室もこの家系出身です)のボリス王に対する評判が高かったので、01年に劇的な帰国を演出したSimeon2世元国王に国民は期待して、元国王が急ごしらえしたNDSV党に投票し、NDSV政権が誕生してしまった(01--05年のシメオン政権)。

  この時この旧国王が、一番力を入れたのが、旧王室財産(これは、当時の「王室資産管理庁」という役所の管理下にあった資産で、法的には必ずしも、シメオン家の私有財産ではなかったはずなのです)をシメオン家の私有財産として、復活させるということでした。結局自らが率いる政権時に、私有財産を確保するという、私的な意図を最優先した王家に、人々は幻滅し、その後2回の総選挙を経て、NDSVは、ほぼ壊滅しました。

(3)追加説明:BSP政権時に、政権幹部政治家らがマフィアとの癒着、裏金への依存などが明白となり評判が下落・・・スタニーシェフ政権が次の総選挙で敗退
  シメオン政権を継いだのは、Stanishev党首が率いるBSP主導の政権ですが、この場合、DPS(トルコ系)、NDSV(王党派)と組んで、3党連立政権となりましたが、BSP有力政治家にも、いろいろとマフィアとの裏での癒着とか、マフィア企業からの金の支援とかがあることが判明し、評判を落としました(05--09年のStanishev政権)。

  また、この政権時には、スタニーシェフ首相以上に影で実力を行使したとも言われるRumen Ovcharov経済・エネルギー相が、ロシアの石油企業(資本)との癒着で政治資金を確保していたらしいこと(事実だったと小生も思う、ただし基本的には、BSP党組織のための資金)も、ロシアによるブルへの、エネルギーを通じた裏支配を警戒するブルの愛国者たち、自由化後の民主主義を信奉する市民ら、に嫌われることとなりました。また、Rumen Petkov・内相(BSP古参幹部・ス政権幹部、前BSP副党首、内相=05年8月—08年4月)が、マフィア、犯罪組織と癒着して警察の動静を漏らしている疑惑も、世論を激怒させました。

  ★なお、wiki(https://bg.m.wikipedia.org/wiki/Правителство_на_Сергей_Станишев)にて入手したSergey Stanishev政権の内閣一覧表は次の通り:
   Sergey Stanishev首相(BSP)
    Ivaylo Kalfin副首相兼外相(BSP)
    Daniel Vqlchev副首相兼教育・科学相(NDSV)
    Emel Etem Toshkova副首相兼災害・緊急事態時国家政策担当大臣(DPS)

     Plamen Oresharski蔵相(無所属・・・後にBSPに入党)
     Rumen Petkov内相(BSP)
     Veselin Bliznakov国防相(NDSV)
     Georgi Petkanov法相(NDSV)
     Rumen Petkov経済・エネルギー相(BSP)

     Nikolay Vasilev国家行政・行政改革担当相(NDSV)
     Petqr Mutafchiev運輸相(BSP)
     Asen Gagauzov地域開発・公共建設相(BSP)
     Dzhevdet Chakqrov環境・水相(DPS)
     Nihat Kabil農業・林業相(DPS)

     Emiliya Maslarova労働・社会政策相(BSP)
     Radoslav Gaydarski保健相(BSP)
     Stefan Danailov文化相(BSP)
     Meglena Kuneva欧州問題担当相(NDSV)
      総計18名、内BSP系10名、NDSV5名、DPS3名。

(4)ボリーソフの台頭
  なおこの政権時に、ソフィア市長職に当選し、更に自らのGERB(ゲルプ)党を創設して、力を蓄えたのが、Boyko Borisovという人物です。
  ボは、シメオン内閣の内務官房長(内務省制服組トップ)だったし、その前には、独裁者ジフコフ(共産党時代)の警備官、或は、01年帰国時にシメオンの個人警備官(警備会社社長として)を務めた旧内務官僚(柔道、空手名人)でした。ボは、旧内務省、警察官僚たちを中心として、G党を組織し、09年の総選挙で政権を取りました。

  国民がボ(共産政権崩壊後の混乱期、一時は暴力団SIK組系警備会社社長)に何を期待したかと言うと、共産政権時代に、下級将校として、治安、警備部門を担当していた内務官僚たちこそが、新しい時代にも、国家に秩序と公安を再建し、マフィア、組織犯罪を取り締まってくれると期待したのです。

  しかし、ボ自身も政治家となっても、相変わらずSIK組暴力団幹部時代の影とか、裏金を多用するマフィア的統治方式、などが垣間見え、必ずしも国民が全面信用できる政治とはならなかったし、庶民の窮乏化を放置して、国家の財政規律を最重視するなど、格差社会の拡大を招きました。

(5)ボリーソフ政権を倒壊し、再度BSP政権を誕生させたのはCIAか?
  12年12月期の電気代大幅値上げをきっかけに貧しい市民が大挙デモして、ボは恐れをなして内閣総辞職を敢行し、次の総選挙での再起にかけましたが、やはり国会議席数が足らず、政権を組めませんでした。

  まあ、細かく政局の流れを概観しましたが、ともかく、国民は、何とか理想的な政党とか、政治家を探そうとしますが、見当たらないのです。有権者、主権者という名前が大げさでも、実質的な国民の権利は、そう大きなものではなく、限定的だという民主主義の原則が、よく分っていない、と思う。国民の多数が、総選挙で選択した結果を、自分の好みと違うと言って否定して、再選挙しても、そう変わり映えしないということに気が付かないのです。

  ある意味、共産圏時代に国家統治していたのは、旧内務省で、その故、内務省の下級将校たちが、実はそれなりに統治能力は高い人材を抱えており、G党が一番現下のブルで、多くの人材層を抱えているのかもしれません。ロシアのプーチン政権が、旧KGB人材で成り立っているように。(小生注:隣国ルーマニアでも、結局は、元共産党の若手党員だった人材が、自由化後のル国政治家として、政権を担っているそうです。要するにブルの政治家たちが、主として旧体制時の内務省の若手下級将校たちだ・・・というのとほぼ同じです。旧体制では、将校たちももちろん共産党員ですから。

  ボリーソフが、「小プーチン」になろうとしている・・・と警戒心を抱いたCIAが乗り出して、Tsatsarov検事総長に政局介入させて、オレシャールスキBSP主導政権を発足させた、というのが小生の見方です。BSPは、旧共産党系の人材を中心に抱えていますが、いつの間にかDPSのマフィア系と連携することにも慣れて、現実派となっているので、それなりに新しい民主的政治を主導できるとCIAは期待したのでしょう。ところが、トルコ系のDPSと組んでの連立政権で、しかもトルコ系人士の中でもマフィアと名高いペーエフスキをDANS(FBI)長官に任命するという人事が発覚して、市民の激怒を招いてしまいました。ブル系市民の多くにとって、ムスリムのトルコ系は、やはり嫌悪の対象ですが、そうはいってもBSP政権形成のためにDPSとの連立が必要、という政治的必要性までは理解できます。しかし、トルコ系の最悪のマフィア人士を、諜報機関として国家の機密を扱うDANS長官に起用するなどとは、もはや理性の範疇外の事態でした。

  なお、今年(13年)の夏、ソフィア市は、意外と涼しい日が続いていて、夕方の街頭デモは、バルカン地方の古い習慣である「夕方の散歩」(お金をかけない社交というか、バルカン半島では、特に夏は、夕方(18:00以降)の涼しい気温を利用し、町の中心部に人々が正装して集まり(昼間の職場には、作業衣で出かけるが、夕方の散歩には背広とネクタイで正装する)、散歩しながら、知人、友人と立ち話を楽しむ風習がある)方式でのデモが長引いています。今年の夏が、厳しい暑さだったら、これほど長くデモが続いたのかどうか??


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