偉大な昭和の軍人:樋口季一郎

 今回は、昭和期の陸軍高級軍人(最終的には中将)で、極めて人道的、かつ、バランスの取れた司令官でもあった樋口季一郎の伝記を読んだので、この新書に関し、一部分のみだが紹介してみたい。
 ルポライターの早坂 隆(タカシ、1973年、愛知県出身)著『指揮官の決断』(文春新書、2010年6月第1刷)がその新書で、何と小生の長女と同じ年に生まれた若いルポライターの著書なのだ!そのくせ、早坂氏の文章は、ルポライターとしての練達があるせいか、なかなかテンポが良く、しかも上手に泣かせてくれるような部分(樋口季一郎のやさしい父親ぶりとか)があちこちに散りばめられているので、読者はつい感動と畏敬の念で、樋口を見る癖がついて、最後の頁を読み終える頃には、すっかり樋口季一郎ファンとなってしまう。遅読癖の強い小生が、この著書に関しては、たった2日で読み終えたことからも、そのおもしろさは保証できる。是非皆様も、お読み下さい!

  その上、小生もこれまで知らなかったけど、同人は、杉原千畝(チウネ)に2年強も先駆けて、ソ満国境に殺到してきたユダヤ人難民を救出する「ヒグチ・ルート」を、ほぼ独断で設立し、数千名のユダヤ人の命を救ったのだという(ヒグチ・ルート経由では、1938年ドイツから満洲里に到着した人々=大部分がユダヤ人?が約245名、39年が551名、40年が3574名、合計4370名と本書にある。ただし41年の人数は不明)。
 すなわち、陸軍高級軍人(ユダヤ人救出当時は、ハルビン特務機関長という職責)であるという偏見の下、戦後杉原に比べてほぼ全く無名に近い存在のままなのだが、救出したユダヤ人の人数という意味では、杉原とほぼ同格なのだ(Wikipediaによると、杉原の救出数は、6千名ほどと言われ、樋口季一郎の場合は、約5千名とされている)。

 ちなみに、小生は、杉原千畝により1940年7-8月に、リトアニアから日本国への通過査証・領事特別許可証を得たユダヤ人達も、シベリア経由満洲に到着したと勘違いしていたが、Wikiによると、シベリア鉄道でウラジオストックに到着して、同港から船で敦賀、舞鶴両港に到達し、その後神戸に至り、更に神戸から1千人ほどが米国、パレスチナに渡り、残りは上海に送還されたらしい。つまりスギハラ・ルートの場合は、満洲を経由しなかった?らしい。

1.オトポール事件=ユダヤ人難民の救出
1938年(昭和13年)3月8日、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎(陸軍少将、50歳)のところに、部下から一つの報告があった。満洲里駅対岸に位置するソ連領オトポール駅に、ユダヤ人の難民が姿を現したという。
ヒトラー率いるナチス・ドイツが対ユダヤ人弾圧の姿勢を明白にしたのは1933年2月頃以来。オトポールにあらわれた彼らは、ドイツからポーランドを目指したが、ポーランドが受け容れに難色を示し、ソ連に向かった。ソ連は当初シベリア開拓の労働力にユダヤ人を利用しようとし、ビロビジャン・ユダヤ人自治州をシベリア東部に設置した(1934年)が、ユダヤ人達は元来都市部の人々で、農作業などの経験に乏しく、労働力として利用できないことが判明し、ソ連当局は一転して滞在を拒否し始め、再び彼らは彷徨いはじめていたのだ。
  満洲里で彼らユダヤ人難民らは、満洲国外交部が入国を拒否するため、朝晩には氷点下20度を軽く下回る厳寒の気候の中、原野にテントを張り助けを求めていた。また、ハルビン市内で総合病院を経営する内科医(ハルビン在住の日本人が多く医療でカウフマンのお世話になっていた由)であったアブラハム・カウフマン=極東ユダヤ人協会会長が樋口季一郎に対し、切々と救済を訴えたという。ハルビンは元々ユダヤ人の多い街で、これは、ロシアの中国進出拠点としてハルビン市を整備したロシア帝国蔵相のウイッテが、ユダヤ系企業の資本力を利用しようと、ユダヤ資本を同地に誘致したからであると言う。1938年当時には、ハルビン市のユダヤ人人口は1.5万人に上っていたらしい。
ちなみに、前年の1937年12月に、ハルビン市で、第1回極東ユダヤ人大会が開催された(満洲国内の他、上海、香港からも参加して、合計1千名近いユダヤ人が参集した)が、右開催についてもカウフマンからの要請に基づき、樋口が開催を認め、最終日には樋口自身もこの大会で演説した(ナチスを批判し、ユダヤ人の建国、民族擁護の立場を支持する内容)という。樋口の下には、ユダヤ問題に専門知識を有する安江仙弘(ノリヒロ、樋口季一郎と陸士同期=21期)、並びに河村愛三・ハルビン憲兵隊本部特高課長(憲兵少佐)がいて、本件大会開催につき、実務を担当して動いた。

  さて、満洲国に対し、帝国陸軍の関東軍は、実質的に「指導権」を有していた(「内面指導」と称する介入権)が、当時の満洲国外交部ハルビン駐在員は、下村信貞という東京帝大卒の外交官(すなわち日本人外交官)だったので、また下村は樋口と面識があったので、同人の協力も得られた。 樋口は熟慮の上、難民の凍死をこれ以上座視し得ないとして決断を下し、満洲国外交部に対する「内面指導権」を発動し、下村に対し、「人道上の問題」として、難民を受け容れ事態を改善せよと強く指示した。下村は、外交上の手続きに奔走した。
  特務機関の部下の中には、樋口への後の関東軍司令部からの叱責・左遷人事などを危惧して、翻意を迫る者もいたが、樋口の決意はもはや変わらず、カウフマンには食糧、衣服の手配を要請すると共に、以前から面識があった松岡洋右(ヨウスケ)満鉄総裁(当時、後に外相)に面会に行き、満洲里からハルビンまでの特別列車の手配を強く要請した。松岡は、特別列車を無料で手配させた。難民達には、下村の奔走のおかげで、満洲国外交部から、ほぼ無条件で滞在査証が発給された。これは有名な「杉原の命のビザ」の2年半ほど前の話しである!
  更に、樋口の奔走で、難民らは、地元商工クラブや学校へと収容された。この最初の救出作戦で受け容れられたユダヤ人の人数は、100--200名程度の少数であったらしいが、その後1941年半ば頃まで、この「ヒグチ・ルート」は存続し、満洲国外交部は難民を受け容れ続けたので、一説では救出された総数が2万人という数字が主張されている。ただし、早坂氏の調査では、上記のように、恐らく5千名が最大の数字らしい。
  なお、樋口の「自らの頚を覚悟の上での、ユダヤ人救済についての英断」の背景として、早坂氏は、人種差別意識が強かった当時の欧米諸国で日本人の留学生、或いは軍人、外交官らの外国勤務時に、「東洋人に家を貸してくれる」のは、ほぼどこでもユダヤ人家主しかいなかったこと。この故に、帝国陸軍軍人の間でも一様にユダヤ人に恩義を感じている人々が多かったこと、樋口自身もワルシャワ勤務、ウラジオ勤務時など、常にユダヤ人家主のお世話になっていた事情にも言及している。

2.ドイツの抗議をはね返した関東軍
  樋口季一郎の独断でオトポール難民問題は、一応の解決を見たが、ドイツ外務省は在日ドイツ大使館を通じて公式の抗議書を日本国外務省に提出した。これに動揺した外務省欧亜局は、抗議書を帝国陸軍省に送付し、陸軍省は関東軍に送付した(要するに、たらい回しして、結局現地軍に対応を迫った)。
  樋口季一郎は、呼び出しに応えて、関東軍司令部に出頭する前に、植田謙吉司令官(大将)に所信を郵送した。
  所信の内容:「小官は小官の取った行為を決して間違ったものではないと信じる。満洲国は日本の属国ではないし、況やドイツの属国でもない。当然取るべき行為をしただけ。ドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない!」
  新京の関東軍司令部に出頭し、東條英機と面会した樋口は、次のように言い放ったという!:「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで、弱い者いじめすることを正しいと思われますか?!」 
  東條は、樋口の言い分に耳を傾け、懲罰を科すことをせず、植田司令官もこれに賛同したので、ドイツの抗議は不問に付された(要するに、無視されたらしい)。また、その後、オトポール事件は、公に語られることはなかったという(日本国として、うやむやに事件を無視して、積極的にユダヤ人難民救出を対外宣伝に使うこともなかった、という意味でもある)。

3.樋口季一郎のもう一つの決断:占守(シュムシュ)島の戦い
ちなみに、ポツダム宣言を受諾し、敗戦を決めた旨の玉音放送があった1945年8月15日の後、16日には、大本営から各方面軍に対し戦闘行動の即時停止が命令されていたが、樋口が担当していた第五方面軍(北方軍)守備部隊が置かれていた千島列島最北部の占守島には、18日午前1時過ぎ、ソ連赤軍の上陸部隊が竹田浜に殺到した。日本守備隊は、果敢に反撃し、日本軍戦車部隊の勇戦もあり、有利に戦闘を進めた。

  大本営命令では、例外的に認めた「自衛目的の戦闘行為」の最終期日は「18日午後4時」であったが、樋口はソ連通として、ソ連軍が銃を置かないことを予期していた。幌筵(パラムシル)島柏原の第91師団経由で、18日未明の攻撃を知った樋口は、この「午後四時」という自衛戦闘最終期日を承知の上で、次のように打電した:「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」。(要するに、樋口司令官の命令では、「午後4時の戦闘停止」は、何ら命令されていなかった。)
  ソ連軍の日本上陸を水際で阻止し、北海道における地上戦を食い止めるには(沖縄戦のような悲劇を阻止するには)、第五方面軍の断固たる反撃、ソ連軍への抑止が必要と考えて、あえて大本営の命令には従わなかったのだ(天皇の指示ではなく、自分の指示で、戦闘を命じる行為となるが、必要と判断し、決断)。

  また、大本営に対しては次のように打電した(18日午後1時時点):「今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、第91師の一部兵力、これを迎えて自衛戦闘続行中なり。敵は先に停戦を公表しながら、この挙に出るは、はなはだ不都合なるをもって、関係機関より、速やかに折衝せられたし」。
  これに基づき、大本営からマッカサー司令官(在マニラ)に、ソ連に停戦するよう指導することを求め、マッカーサーはソ連国防軍アントノフ参謀長に停戦を求めたが、ソ連軍最高司令部はこれを拒否した。

  他方、現地日本軍守備部隊は、樋口の意志に反して、大本営指令通り、午後4時には積極的戦闘を停止した(すなわち、激しい戦闘は、18日午前1時から午後4時までのみ)。もっとも、ソ連軍上陸部隊からの攻撃はその後も続いたので、実際の戦闘はその後も続いた。現地軍同士の停戦交渉は、19日に開始されたが、最終的な停戦が成立したのは21日であった。また武装解除も予定より一日遅れ、23日から行われた。

  占守島の戦いでの犠牲者は、日本側死傷者600--1000名、ソ連側死傷者1500--4000名と、ソ連側の犠牲者の方が多かった(日本軍の勝利)。
  占守島で日本軍の実力を体感したソ連首脳部は、以降日本に対し慎重となり、南下の速度が鈍っている間に、米軍は北海道に進駐を完了した。占守島の戦いは、戦場としては小さかったが、日本国を守り、朝鮮のように分断国家とならなかった、という意味で、大きな意味を有した。この点につき、樋口が公に自慢するようなことは、戦後も一切無かった、という。

4.樋口と東條の関係 
  ちなみに、小生の昭和軍部に関する関心事は、既に何度か書いたように、石原莞爾、永田鉄山、東條英機ら「統制派」と呼ばれた陸軍高級幹部達の対中戦争拡大への責任、太平洋戦争突入・敗戦への責任だ。

  今回の樋口季一郎中将の場合、石原莞爾とは盟友、親友関係にあったし、東條もユダヤ人問題に関しては、ドイツの圧力を跳ね返してまで樋口を擁護した。更には、樋口は、自らが統制派に連なるように見られることもあったし、他方、皇道派の相沢三郎中佐も福山歩兵第41連隊長として、直属の部下だった。もっとも樋口自身は、常に穏健派の円満な人格として、過激な青年将校達を諫め、「そのような行動を取るつもりなら、きっちり陸軍を退職してから、自説に基づき行動するがよい」と、退職を勧めていたらしい。

  今回の早坂氏の著書では、p129--130にかけて、次のような叙述がある:「当時の関東軍司令部内において、東條派の勢力は強力だった。日中間の衝突に関し、石原莞爾ら内地の軍中央は、不拡大方針を徹底しようとしたが、それは組織内において十分な浸透力を保持しなかった。東條派は、不拡大方針に逆行するような態度を鮮明にしていた。樋口にとり東條は、陸士の4期先輩にあたるが、現地の東條派の動向は、中央の方針を大きく逸脱しており、その温度差、空気の差を樋口は強く感じた。関東軍の中央との距離感、「下克上」的な空気を創出した端緒に、石原莞爾が起こした満洲事変があるという一面を否定できないことは、樋口にとっても整理しがたい現実であったと言える」。

  要するに、石原莞爾自身は、理想主義、日蓮宗信仰(樋口も日蓮宗)に基づき、「独立国」として、「真の五族協和の王道楽土」としての「満洲国」建国を図ったとしても、結局その後この新事態を継承し、満洲国を指導した関東軍は、満洲のみではなく、中国大陸そのものまでも、狙いはじめていたのである。石原莞爾の意図は善でも結果は最悪だった。すなわち石原の短慮と、東條英機の「下克上、出世主義」が、日本国を破滅に導いていったのだ。

  そういう、東條関東軍参謀長の配下で、ハルビン特務機関長として、ユダヤ人に対する人道的救済を、「自らの良心のみに基づき、決断」したのが、樋口季一郎であった。更には、終戦に関わる大本営命令の中の自衛戦闘停止期日を無視する「独断的決断」を、勇敢にも下したのだ(ただし、現地守備隊側はよく戦ったとはいえ、第五方面軍司令部の戦闘命令を正しく理解できず、大本営命令通りに自衛戦闘停止時間を厳守して、樋口を落胆せしめたのである)。帝国陸軍の悪弊ともいえる「独断専行」を、先見の明に基づき、正しく決断したのが樋口だったと言える。

ともかく、東條の党派根性+「下克上主義」と、樋口季一郎の「独断的決断」の間には、国家の運命に関する洞察力とか、人道に関する使命感、暖かい配慮とか、そういう人間としての次元で、かなりの差異があるように小生は感じる。同じ陸軍幹部とはいえ、樋口季一郎の、外国暮らしの経験にも裏打ちされた、深い教養と比べれば、東條のきまじめとはいえ、愚かな判断力という側面を、残念に思わざるを得ない。
  樋口自身が東條を評して、「善悪の問題においては善に属し、賢愚の問題においては愚に属す」と言ったらしい(p240)。

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